奉公してお馬の番人にでもなればいいに」
とお君はムクの勇ましさから、米友の身の上を考えました。
 それを考え出すと、いったいここの旦那様という方が、どんなお方であろうかということをも考え及ぼさないわけにはゆきません。朋輩《ほうばい》の女中に向って、
「お藤さん、御当家の旦那様はどちらにいらっしゃるのでございます」
「旦那様御夫婦のおいでなさるところは向うの屋根の大きなお家さ、その向うに破風《はふ》のところだけ見えるのが三郎様のおいでなさるところで、ここでは見えないけれど、あの欅《けやき》の木のこんもりとした中にお嬢様のお家があるのですよ」
「お嬢様の……」
 お君にはここで前の日に小橋のほとりで会った、かの呪われた妙齢の女の姿がいちずに迫って来ました。
「お君さん、お前はお嬢様に会いましたか、まだですか」
「いいえ……」
とお君は首を横に振ってしまいました。
「そうですか」
と言ったきりで、お藤は気の抜けたような面《かお》をしてお君を見ました。お君はこの場合、お嬢様の身の上のことを尋ねるのだが、なんだかそれは忍びない心持がしたから、取って附けたように、
「まだ、私は旦那様にもお目にかかりません」
「旦那様は、滅多に外へおいでになりませんけれど、どうかするとこの牧場《まきば》へお伴《とも》を連れて出ておいでなさることがありますよ」
「お年はお幾つぐらいでございます」
「もう、いいお年でしょうよ、あの三郎様や、お嬢様の親御さんですから」
「三郎様とおっしゃるのは?」
「こちらの総領のお方、この馬大尽のおあとを取る方なのよ」
「それから奥様は?」
「奥様には、わたしまだお目にかかったことがありません」
と女中のお藤が言いました。
 その家の女中でいて奥様を知らないということは、お君の耳には奇異に聞えました。
「わたしが奥様のお面《かお》を知らないばかりでなく、うちの女中で、誰でもまだ奥様にお目にかかった者は無いのですよ。取締りのお婆さんだって、奥様を知っているか知っていないか、あのお婆さんだけは、知っているには知っているでしょうけれど、それも知らないような面をしていますよ」
「それはどういうわけなのでございます、奥様は御別宅の方にでもいらっしゃるのですか」
「どういうわけだか、ほんとに、そう申してはなんですけれど変なお屋敷でございますよ。奥様はこちらにおいでなさるとも言い、また御別宅の方においでなさるともいうのですが、その辺が永年御奉公をしていて、わたしたちにはさっぱりわかりませんの。けれども今の奥様が二度目の奥様で、旦那様よりズットお若い方だなんて、女中たちの中では噂をしているものもあります。なんでも二度目か三度目の奥様に違いないので、あの三郎様やお嬢様の産《う》みのお母さんではないのですね。なんだか変に、こんがらがっていて、とても、こんな大家の財産《しんしょう》と内幕は、わたしたちの頭では算段が附きません。ただおかわいそうなのはあのお嬢様でございますね、あのお方はほんとうにおかわいそうなお方でございますよ」
「お嬢様が……」
 どうしても話は、例のお嬢様のところへ落ちて行かねばならなくなりました。
 お君が知らないと思って、この女中は、お嬢様のことについてはかなりくわしくお君に話して聞かせました。お嬢様の名はお銀様ということ。それはそれは怖ろしいお面《かお》、と言う時にお藤自身もゾッとして四辺《あたり》を見廻し、お君もあの時の面が眼の前に現われて身の毛が竦《よだ》ちました。なおこの女の語るところによれば、お嬢様のあんなお面になったのは、ただに疱瘡《ほうそう》のためばかりではない、それより前に大きな火傷《やけど》をしたのがああなったのだということでありました。誰かお嬢様にあんな火傷をさせた者があるのだというような口ぶりでありました。
 してみれば、天然の病気と人間の手とふたりがかりで、あのお嬢様という人の面を蹂躙《じゅうりん》してしまったことになる。なんという惨《むご》たらしい報いであろうと、お君は、どうしてもそのお嬢様のために心から同情しないわけにはゆきませんでした。
「これほどのお大尽でも、あればかりはどうすることもできませんね。それだからお君さんのような容貌《きりょう》よしに生れついた者は、お金で買えない幸福《しあわせ》を持っているわけですから、大切にしなくてはいけませんよ」
とお藤はお君に向ってこう言いました。野菜類を洗ってしまってから、お君はムクに食物をやろうとしました。
 ところが、いつもその時刻には来ているムクが見えませんから、お君は牧場へ出て、遠く眼の届く限りを見渡しました。しかしそこにもムクの姿が見られません。思うに群犬を率いて興に乗じて、あの山の後ろの方まで遠征して行ったものだろうと、お君は強《し》いては心配し
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