垂れるように黒く、それを見事な高島田に結い上げてありました。姿、形、作り、気品、その顔だけを除いて、もし後向《うしろむ》きにしてこれをながめた時には、誰でも恍《うっと》りとしてながめるほどの美人です。
馬に乗っていたお君は、それを突然《だしぬけ》に前から見てしまいましたから、ゾッとして慄《ふる》え上りました。
「幸内、お前、いま山から帰ったの」
その呪われた妙齢の人は、椿《つばき》の花の一枝を持っていました。そうして若い馬商人《うまあきんど》を幸内、幸内と呼びかけては、こっちへ静かに近寄って来るのであります。
「これはお嬢様、お早うございまする」
幸内と呼ばれた若い馬商人は小腰を屈《かが》めました。
「幸内、それはどこのお方」
と言って、呪われた女の人は、そのひきつれた眼を銀の針のように光らせて馬上のお君を見ました。
その時に、お君は身の毛が立って馬の上にも居堪《いたたま》らないような気がしました。
無論、この時までもムク犬は黙々として馬と人とに従って跟《つ》いて来ていたものですが、ここに至ってその鷹揚《おうよう》な頭を振上げて、呪われた妙齢の女の人の面《かお》をじっと見つめました。
「これは、丸山の下で、難儀をしておいでなさるところを助けて上げたのでございます。まだ身体が弱っておいでなさるようでございますから、女中部屋まで連れて行って休ませて上げたいと思います」
「そう、早くそうしておやり、お薬が要《い》るならわたしのところまで取りにおいで」
「はい、有難うございます」
お君は馬上で聞いて、このお嬢様と呼ばれる人が、面付《かおつき》の怖ろしいのに似もやらず、情け深い人のように思われたのでホッと一安心です。
「それから幸内や、その馬を厩《うまや》へ廻してしまったら、父様のところへ行く前に、わたしのところへ、ちょっとおいで」
「はい」
「嘘《うそ》を言ってはなりませんよ」
お嬢様はこう言って、椿の花の枝を持ったままであちらへ行ってしまいました。嘘を言ってはなりませんよ、の一言《ひとこと》に、針が含まれているようにお君の耳には聞きなされます。しかしながら、お君の胸は、「おかわいそうに……」という同情が無暗に湧いて来て、その呪われたお嬢様のために、ほとんど泣きたくなってしまいました。
二
お君は若い馬商人の幸内に引合わされて、女中の取締りをしているお婆さんに会いました。このお婆さんは幸内から委細の物語を聞いた上で、
「まずい物を食べてみんなの女中と同じように働いてもらいさえすれば、いつまでいても悪いとは申しません」
さしあたり、こう言われたことはお君にとって仕合せでありました。女中はみんなで十五人ほどいました。その女中のうちにもおのずから甲乙があって、本人の柄によって奥向のと下働きのと二つに分れています。
「わたしは、骨の折れるような力業《ちからわざ》はできませんけれど、どうかお台所の方へ廻していただきとうございます」
とお君は、かえって下働きを志願しました。
お君が好んで下働きを志願したのはムクがいるからであります。もし奥向を働くようになって、ムクと離れる機会が多くなると、ムクの世話を人手にかけるのが気にかかる。少しは骨が折れても、朝夕ムクと同じところにいることがどのくらい力になるか知れません。お君の仕事といっては、普通の台所の仕事のほかには、馬にやる豆を煮たり鶏の餌をこしらえてやったりする手伝いで、大して骨の折れるようなことはありません。初めのうちは自分が厄介《やっかい》になる上に犬までつれてと気兼ねをしていましたけれど、これほどの大家《たいけ》で犬一匹が問題にもならず、心安く思っているうちに、ムクは早くも他の女中たちに可愛がられてしまいました。女中取締りのお婆さんもまたムクを、男らしい犬だと言って大へん可愛がるようになりました。
従来この家にいた幾多の犬も、ムクの姿を見た最初は吠《ほ》えたり睨《にら》んだりしてみましたけれど、二三日たつうちに不思議に懐《なつ》いてしまい、ムクが立つと、群犬がその周囲におのずから列を作るようになりました。ムクが牧場《まきば》をめがけて歩を運び出すと、群犬がそれに従って足並みを揃えて繰出すようになりました。
広々とした牧場、その中に逞《たくま》しい馬や、愛らしい小馬の臥たり起きたり鬣《たてがみ》を振ったりしている中を、ムクが群犬の一隊をひきつれて一周する光景は勇ましいものでありました。お君は手拭をかぶって小流れの岸で、ほかの女中たちと一緒に野菜を洗いながら、ムクの勇ましいのを見て自分ながら嬉しくてたまりませんでした。
「こんな威勢のいいところを友さんに見せてやれば、どのくらい喜ぶか知れない、友さんもあんなところに燻《くすぶ》っているよりは、こんなお家へ
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