ませんでした。
この機会に少し牧場の状態でも見ておこうかと、お君はムクを尋ねながらに牧場の方へと歩んで行きました。
今、お君の頭の中では、ムクのことよりも一層、あのお嬢様のことが考えられてたまりませんでした。お君は自分ほど不幸なものはこの世にないと思っていた一人でした。ほとんど幸福というものを持たずに生れて、不幸という浪の中にのみ揉《も》まれて来たのが自分のこれまでの生涯だと思いました。それを今、あのお嬢様と比べて見れば、自分の方が確かに幸福者《しあわせもの》であると言われて、なるほどそうかと思わねばならないことほど無惨《むざん》に感じたのであります。
病気をしたことのない者には、壮健《たっしゃ》で無事でいることの有難味がわからない。ともかくも、人並に生れついたということの有難味が、この時お君にわかってきて、自分ほど不幸な者はこの世にないと思っていた心は、僻《ひが》みであったり我儘《わがまま》であったりしたのではないかとさえ思われました。百万長者の娘に生れたことが、この時にはお君にとって少しも羨望《せんぼう》ではありませんでした。そうしてこの気の毒なお嬢様の身の上に心の中で同情をしながら牧場を歩いて行くうちに、ついつい、お嬢様のお家のあるところだという欅《けやき》の林に近いところまで来てしまいました。もう冬と言ってもよいくらいですから欅の紅葉は、ほとんど八《やつ》ヶ岳颪《たけおろし》で吹き払われていました。木の下には黒くなった落葉が堆《うずたか》く落ちていました。そこへ来てお君は、ここがあのお嬢様のお家であると思って、そっと大きな欅の蔭から垣根の中をのぞいて見ました。
そこにまた庭があって、池や泉水や築山《つきやま》があるのが見えました。そうして縁のところに一人の男の人が腰をかけている様子であります。
「幸内、幸内」
と座敷で呼ぶのは、あのお嬢様の声。呼ばれて、縁に腰をかけているのは、自分を助けて来てくれた若い馬商人。お嬢様の方の姿は座敷の中にいて見えませんけれど、幸内の姿は垣根越しによく見ることができました。
「幸内や、お前に貸して上げるには上げるけれど、お父様に話してはいけません」
「どう致しまして、旦那様のお耳に入りますれば、お嬢様よりは、わたしがどんなに叱られるか知れません」
「では大事に持っておいで。そうして三日たったらきっと返してくれるだろうね」
「それはもう間違いはございません」
「刀や脇差は幾本も幾本もあるのだけれど、この一腰《ひとこし》はお父様が、わけても大事にしておいでなのだから」
「それは、もうよく存じておりまする、三日たてば間違いなくお返し申しまする」
幸内の前へお銀様は、手ずから長い桐の箱をさしおきました。
「これはどうも有難う存じます、お嬢様のおかげで日頃の望みが叶いまして、こんな嬉しいことはござりませぬ」
幸内は箱の上へお辞儀をしました。
「幸内」
「はい」
「お前がこの間つれて来た、あの娘《こ》はどうしています」
「へい、あれはおばさんに願ってお屋敷へ御奉公を致すようになりました」
「あれはお前、お前が前から知っていた子ではないの」
「いいえ、そんなことはございませぬ」
「では、あの山で初めて会ったのかい」
「左様でござります」
「その後、お前はあの娘と口を利きましたか」
「いいえ、あれからまだ会いませんでございます」
「あの娘は容貌《きりょう》がよい子でしたね」
「どうでございましたか」
「あんなことを言っている、あの娘は綺麗《きれい》な子であったわいな」
「面《かお》つきは、そんなでございましたか知ら。何しろ行倒れのような姿でございましたから、見る影はありませんでした」
「姿はやつれていたけれど、ほんとに容貌美《きりょうよ》し、よく作ってやりたい」
「一寸見《ちょっとみ》はよく見えても、作ってみると駄目なんでございましょう」
「いいえ、かまわないでおいてあのくらいだから、お作りをしたら、どのくらいよくなるか知れない、わたしは着物を持っている、髪の飾りも持っている、貸してやりたい」
「お嬢様のそのお言葉をお聞かせ申したら、さだめて有難く思うことでございましょう、あの娘はほんの着のみ着のままで道に倒れていたのでございますから」
「わたしの物をそっくり遣《や》ってしまいたい、わたしなんぞこそ着のみ着のままでいいのだから」
「お嬢様、何をおっしゃいます」
「ほほほ、わたしとしたことが、また我儘なことを言ってしまいました。幸内や、それでよいからお前は早くそれを持っておいで、誰かに見られると悪いから。見られてもかまわないけれど……」
「それではお嬢様、お借り申して参りまする、三日目には必ず持って参りますでございます」
幸内は頭を下げて、その長い桐の箱を風呂敷に包んで暇乞《いとまご》いをしま
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