たび竜之助の膝にのたりつきました。その口を慌《あわただ》しく動かして、咽喉首《のどくび》が筬《おさ》のように上下するところを見れば、これは何か言わんとして言えないのでした。訴えんとして訴えられないものでありました。
 突き放され、突き放され、またのたりつく有様は他目《よそめ》には滑稽《こっけい》でもあるけれども、その当人は名状し難い苦しみにもがいているのです。如何《いかん》せん机竜之助は、それを滑稽として見ようにも、また苦悶の極みとして見ようにも、どちらにしても見て取ることができない人でありました。
 しかしながら、机竜之助の両眼が暗くて、その人の何者であるやを見て取ることができないにしても、たとえささやかながら行燈《あんどん》の火がある以上は、面《かお》も着物も真黒になってはいるけれど、見知った者には間違いなく、それは馬大尽の雇人の幸内であるということがわかるのであります。
 これは馬大尽の家の幸内でありました。伯耆《ほうき》の安綱の刀を持って出て行方《ゆくえ》知れずになった幸内が、今ここにこんな目にあわされていることを誰が知ろう。幸内はそれを今、神か仏か知らないけれども居合せた机竜之助に向って訴えようとするものらしいが、どうしても口が利けないらしい。
「神尾殿が来てなんとかするまで、もとのところで窮命しておれよ」
 竜之助は、やはり片手でさぐって、のたり廻る幸内の襟髪《えりがみ》を無造作《むぞうさ》に掴んで、部屋の隅へ突き飛ばしてしまいました。
 幸内を振り飛ばした机竜之助は、やがて手柄山正繁の一刀を腰に差して立ち上りました。
 振り飛ばされた幸内は、長持の隅のところへ投げ倒されたなりで、今度は動くことをしませんでした。そうしておいて竜之助は、懐中から宗十郎頭巾《そうじゅうろうずきん》を出して冠《かぶ》りました。頭巾を冠ってしまってから、座敷の隅をさぐるとそこに杖が立てかけてありました。その杖を手に取って、行燈の方へ静かに歩み寄って、その火を消そうとすると、廊下に人の足音がしました。それで竜之助は行燈を覗《のぞ》いたような形のままで、その足音に耳を傾けました。
 足音は廊下を伝ってこの座敷へ来るのであります。
「机氏、机氏」
と言って竜之助を呼びました。
「おお、主膳殿か」
 竜之助はそれを知って、燈火を吹き消すことをやめて、冠《かぶ》っていた頭巾を取って懐中へ押隠すように入れてしまいました。そこへ入って来たのは神尾主膳でありました。
 主膳は片手に長い箱を抱えて、
「竜之助殿、貴殿に見せたい品がある、それでワザワザやって来た」
「それはそれは」
 主膳は長い箱を目の前へ取り直して、
「いつぞや噂をした伯耆の安綱の刀が手に入った」
「ははあ、安綱がお手に入ったか、それは珍重《ちんちょう》」
 主膳が包みを解いて箱の中から出した袋入りの白鞘は、前日試し物のあった日から、幸内と共に行方不明になった馬大尽の家に伝わる宝刀であります。
 しばらくして神尾主膳は、燈下でその安綱の鞘を払って竜之助の前に突き出して、
「二尺四寸、大湾《おおのた》れで錵《にえ》と匂いの奥床《おくゆか》しいこと、とうてい言語には述べ尽されぬ」
と言いました。
「篤《とく》と拝見したいものだが、見ることができぬ」
と言って竜之助は笑いました。
「ともかくも手に取って見給え」
 主膳はその刀を持ち添えるようにして、竜之助に手渡ししました。
「なるほど」
 竜之助は伯耆の安綱の刀を手に取って、持ち試みていましたが、
「安綱といえば古刀中の古刀、誰もその位を争うものはないのだが、さて実力はどれほどのものか知らん」
と言って嘯《うそぶ》くように見えました。
「竜之助殿、貴殿ひとつ試してみる気はないか」
「この安綱を?」
「左様」
 安綱を試してみろと言われて、竜之助は首を横に振りました。
「いかに名刀なりとて、千年もたっては隠居同様、ただ名物として奉って置くが無事であろう」
「たとえ千年二千年たとうが、精が脱《ぬ》けるようでは名刀の値打はない、この肌を見給え、この地鉄《じがね》を見給え、昨日|湯加減《ゆかげん》をしたような若やかさ」
「拙者には名刀といわず、無名刀といわず、手に合うたものがよろしい」
「それはそうかもしれぬ、しかし、安綱ほどの刀を試して、千年からの極《きわ》めを破るも面白いではないか。この刀をもって物を斬った話、古くは源頼光《みなもとのらいこう》の童子切と、近代では長曾我部元親《ちょうそかべもとちか》が何とやらしたという話、そのほかは畏《おそ》れかしこんで神棚へ祀るほかには能事がない。事実、切れ味はどんなものか拙者も知らぬ、世間の奴も知らぬ」
 神尾主膳は机竜之助をして、伯耆の安綱と称せらるるこの名刀を試させん底意《そこい》があって来たものと見えます
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