番人をしている男が食物を運ぶのと燈火《あかり》をつけに来ることによって、そこに人がいることがわかりました。
 また庭の幾所に巻藁《まきわら》が両断されて転がっていることによって、この家に住む人が試し物をするのだということが想像できるのであります。
 ここに置かれた机竜之助が刀調べをしていることも、その調べた刀によって巻藁の類を試していることも、ひまつぶしとしてはそうありそうなことであります。寝刃《ねたば》を合せていることも、巻藁を切るためであったかと思えば、別段に凄いことではありません。
 そこで寝刃を合せ了《おわ》った竜之助が、手柄山正繁の一刀を取り直した時に、広い座敷、およそ二十畳も敷けるこの一間の片隅にあった古びた長持の蓋《ふた》がガタといって動きました。
 その音で竜之助は、刀を持ったまま長持の方を向きました。竜之助が長持の方を向いた時に、長持の蓋がまた続けざまにガタガタと二つばかり動きました。三つ目には、もっと烈しい音で、下から力を極めて何か持ち上げるような音で長持が動きました。
 屹《きっ》とそれを見つめていた竜之助は、
「騒ぐな、騒いだとて時が来ねば許しはしない」
と長持の蓋に向ってこう言いました。その様、何か心得ているらしく見えます。しかし動きはじめた長持は、竜之助のこの声を聞いて静まることがなくて、かえって烈しい音を続けざまに中から立てて、それに相答うるような有様でありましたが、敢《あえ》て一言も人の言《こと》の葉《は》としてはその中から洩れて来るのではありません。
「おとなしうしておれ、騒ぐとかえってためにならぬ」
 竜之助は叱るように、また教えるように、或いは嚇《おど》すようにこう言いました。ところが、その声を聞くと、いや増しに長持が動きました。動くというよりは寧《むし》ろ、長持そのものが荒《あば》れ出したように見えました。もしこの長持の中に人があるならば、こんなに荒れ出す先に、許せとか助けよとか、哀れみを請うべきはずであるのに、そうでなくて、ただただ必死に荒れてのみいるのでありました。その荒れる烈しさをこちらから想像すれば、それはかなり力のある男のする業であると、誰もそう思わないわけにはゆきません。
 口では叱るように、教えるように、または嚇すように騒ぐなと言ったけれど、その態度は冷然たるもので、いよいよ動き荒れ出した長持の蓋も箱も中から裂けてしまいそうになってきた時も、竜之助は立とうとも動こうともしませんで、やはり冷然として、その刀を鞘に納めてしまいました。その途端に長持のいずれの部分かが、メリメリと裂けるような音がしたかと思うと、中からもがき出したのは一人の男。
 それはちょうど、紺屋《こんや》の藍瓶《あいがめ》の中へ落ちた者が、あわてふためいて瓶から這《は》い上るような形であります。面《かお》も着物も真黒でありました。
 古い長持であったから、それで錠前《じょうまえ》も刎切《はねき》れたものであろうけれど、それにしても中からそれを刎切るのは容易な力でありません。渾身《こんしん》の力を絞ってやっと蓋を跳上げて、箱の外へもがき出した一人の男は面も着物も、そっくりと紺屋の藍瓶へ漬けておいたように真黒くなっていました。そのもがき出す身ぶりによって見れば、両手を後ろへ廻して縛られた上に、両足をまた一つに絡《から》げてこの中へ投げ込まれていたものと見えます。
 竜之助は今しも鞘へ納めた手柄山正繁の刀を膝元へ引きつけたままで、ただそちらの方を見て坐っているばかりでありました。この刀は白鞘《しらさや》の刀ではありません。それは神尾が差しても竜之助が差しても恥かしからぬほどの拵えのある刀でありました。その刀をこころもち居合に取って、行燈の方向を少し避けるようにしたのは、ここに引寄せて斬って捨てようとの心構えに見えました。
 真黒になって手足を縛られた人間が、やっと立ち上った形は、大きな蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》が天上するような形であります。手足こそ縛られているけれども、いっこう猿轡《さるぐつわ》を箝《は》められた模様もないのに、口を利かないのはなぜだろう。なんとも言わないで、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》の天上するような形をしてやっと長持をもがき出した黒い人影は、人魚の児が這い出したようにして畳の上をのたくって、竜之助の方へと寄って来るのであります。
 のたりのたってその男は、ついに竜之助の膝のところまで来ると、その膝を枕にするようにして竜之助の面《かお》を打仰ぎました。
「叱《しっ》!」
 竜之助は左の手でそれを払い退けると、その男は執念《しゅうね》く再び竜之助の膝にのたりつくのであります。
「うるさい」
 竜之助は再びそれを払い退けました。払い退けられて男は三
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