和物とも言わないで、肌のことから言い出したのは、大綱《たいこう》を述べないで細論にかかったようなものでありました。この老人も多少てこずったものと見えます。
ともかくも平野老人が、これだけの口を開いてみると、次には小林師範役がなんとか言わなければならない立場になりました。
「模様を一見したところでは、肌が立って地鉄《じがね》が弱いようにも見受けられる……が」
最後のが[#「が」に傍点]というところへ、最も多くの余地を残しておきました。
「左様」
平野老人は呑込んだように頷《うなず》きました。しかし何が左様だか列座の人には、あんまり呑込めないようであります。そこで老人は、
「その地鉄がなあ」
と附け足したけれども、地鉄がどうしたのだか、いよいよ呑込めなくなりました。これだけ言いかけたら、あとは小林師範役か誰かがバツを合せてくれるだろうと思っていたところが、小林はそれからなんとも言いませんでした。一座の者も黙っていましたから、老人は自身の言葉尻を持扱っていると列座の中から、
「則重《のりしげ》……則重……則重ではないか」
と吃《ども》りながらこう言った者がありました。これはそそっかしいので通った市川という御蔵《おくら》の係りでありました。まだ誰も剣呑《けんのん》がって国も言わなければ年代にも触《さわ》ってみないうちに、早くもその銘を言ってしまったところはなるほど、そそっかし屋であり正直者であることがわかります。
「以てのほか」
平野老人は首を振って肯《うけが》いませんでした。市川の言ったことを刎《は》ねつけることによって、自分がもてあました言葉尻が立て直りました。
「則重ではござらぬ」
平野老人は首《かぶり》を振ったから、そそっかし屋の市川は一時《いっとき》、面を赤くしましたけれど、老人があんまり手厳《てきび》しく刎《は》ねつけたものですから、反抗の気味となって、
「そ、そ、そんならば、そんならば、老人のおめききは……」
と言って反問しました。焦《せ》き込むと吃《ども》る癖があるから、いつもならばおかしいのであるけれど、誰も笑いませんで、かえって市川に同情するような心持で、老人の返答を相待っているような者さえあります。それは則重と見たものがこの市川一人ではなく、だいぶ同意見の者があるらしいのです。市川と同意見であるけれども、まだそうも言い出し兼ねている時に市川が皮切りをしたから、わが意を得たりと言わぬばかりに、内心で市川に同情しているらしい者もあります。
「なるほど、則重と言いたいところである、一応はそう言ってみたいところで、市川氏のおっしゃるのも御無理はない、大湾《おおのた》れに錵《にえ》が優《すぐ》れて多く匂いの深いところ、則重の名作と誰も言ってみたいが、それよりはずんと高尚で且つ古いものじゃ」
平野老人はこう言いました。
「そ、そんならば老人のお目利《めきき》は?」
市川は再び老人に返答を促《うなが》したけれども老人は、頓《とみ》に返事ができないで困《くる》しんでいる様子を小林師範が傍《かたわら》から見て、
「これは近頃の好題目、口に出して言うては皆々遠慮がある故に、入札《いれふだ》としてみたらいかがでござるな、各自の見るところを少しの忌憚《きたん》なく紙へ書いて、名前を記さずにこれへ集めてみようではござらぬか」
小林がこう言い出したのは、老人にも救いであり一座もみな同意しました。言い出したいけれども恥を掻くといけないと思って遠慮していたものが多いのを、それが無記名投票になれば恥はかき捨てになり、当れば名誉になるのですから、忽《たちま》ちに多数の同意を得て筆と紙との用意が出来ました。おのおの筆を取って紙片に思う所を書いて捻って盆に載せ、二十余人の者が残らず投票をしてしまった後に開票のことになりました。
開票して見ると、その鑑定に大胆を極めたのもあり、小心翼々と疑問を存したのもあったが、いずれもそれを古刀と見ることには異議はありません、新刀と書いたものは一人もありませんでした。備中《びっちゅう》の青江《あおえ》であろうと書いたり、備前の成宗《なりむね》と極《きわ》めをつけたのもあり、大和物の上作と書いたのもあり、或いは、飛び離れて天座神息《あまくらしんそく》などと記したものもありました。その観《み》るところの区々であるだけ、それだけ捉まえどころが少ないものと見えましたが、さすがに則重と書いたものが六枚ありました。二枚三枚と適合したのはほかにもあったけれど、六枚揃うたのは則重だけでありました。
「どうもわからぬ」
開票してみて、いよいよ刀のえたいが不思議になってしまいました。則重もまた正宗《まさむね》門下の傑物だが、今ここに評判に上っているような宝物としては物足りないのであります。
「それでは、いよいよ則重かな
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