」
一同の面《かお》の色にありありと失望の色が見えまして、それがやや軽侮《けいぶ》の表情に変って行くのを見ていた馬大尽の雇人幸内は、たまらなくなりましたから、
「申し上げまする、これは則重ではござりませぬ、数年前、本阿弥《ほんあみ》様が主人の家へお立寄りになりました時分の御鑑定によりますれば……」
さてこそ本阿弥が引合いに出されて来ましたから、一同は言い合わせたように幸内の面を見ました。本阿弥という名前は、とにもかくにもこの場合、重きをなすのであります。
「本阿弥家の折紙があるならば、あるように最初から言っておくがよい」
と平野老人が呟《つぶや》きました。
「いいえ、折紙があるのではござりませぬ」
と幸内は言いわけをしました。
「どうしたのじゃ」
「本阿弥様は折紙を附けませぬ、手前共の主人も折紙を附けていただくことは嫌いなのでござりまする」
「して、本阿弥がなんと言った」
「本阿弥様が申しまするには、この刀は伯耆《ほうき》の安綱《やすつな》であろうとのことでござりまする」
「ナニ、伯耆の安綱?」
「はい」
「ははあ、伯耆の安綱か」
と言って、いったん鞘《さや》に納められた太刀《たち》が再び鞘から抜け出しました。
「なるほど」
「なるほど」
彼等は手から手に渡してつくづくとながめました。
「それだから言わぬことではない、一見しては地鉄《じがね》が弱いようだけれど、よく見ていると板目が立ち、見れば見るほど刃の中に波が立ち、後世の肌物《はだもの》とはまるで違う」
平野老人は得意になりました。さながら本阿弥を自分の味方に引きつけたように、鼻高々と一座を見廻すと、小林師範役は、
「なるほど、そう言われて仔細に見ると、地鉄に潤《うるお》いがあって、弱いようなところに深い強味がある、全く拙者共の目の届かぬも道理」
と言って服してしまいました。
「伯耆の安綱というのはこれか、名にのみ聞いて、拝見するは今日が初め」
一座は幾度も幾度もその刀を見ました、見れば見るほど感心の体《てい》でありました。主人役の神尾主膳も得意になってしまい、則重といった人々さえ、自説の破れたことは悔いないで、その刀に見惚《みと》れてしまっていました。自然、幸内の肩身も広くなり、
「本阿弥様も、しかと安綱とは仰せになりませんで、もし伯耆の安綱でなければ、それと同じような、またそれよりも上の作であろうと御鑑定になりましたそうでございます」
「なるほど」
「斯様《かよう》な刀には我々共が極めをつけるは恐れ多いと本阿弥様が御謙遜《ごけんそん》になり、主人もまた、極めをつけていただくことが嫌いなのでございまして、ただ宝刀として蔵《しま》って置きましたのでござりまする」
「なるほど」
ここの一座には、安綱を見たものはいずれも初めてでありました。
伯耆の安綱は大同年間の名人、その時代は一千年以上を隔てたものです。よし安綱であってもなくても、それと同格或いは同格以上のものであらば、それは宝物とするのに充分であります。
見直しているうちに、一座は誰とてそれに不服を唱えるものはありませんでした。
「摂州多田院の宝物に童子切《どうじぎり》というのがあるそうじゃ、これは源頼光《みなもとのらいこう》が大江山で酒呑童子《しゅてんどうじ》を斬った名刀、その刀がすなわち伯耆の安綱作ということだが、拙者まだ拝見を致さぬ。その他、大名のうちに、稀には安綱があるとも承ったけれど、いずれもその名を聞くばかり」
と言って平野老人は、再び手許に戻って来た名刀を貪《むさぼ》り見ると、神尾主膳もまた老人と額《ひたい》を突き合せるようにして刀ばかりを見ていました。
五
その席はそれで済みました。主人も客も、始めあり終りある会合を満足して退散しました。
ただここで変なことが一つ起りました。それは幸内の行方であります。幸内はあれから御馳走になって神尾家を辞したのは夕方のことでありました。もちろんその帰る時も小腋《こわき》には、伯耆の安綱の箱を抱えて帰ったのでありましたが、それが有野村へは帰らずに、途中でどこへ行ったか姿が見えなくなってしまいました。
有野村の馬大尽の家では誰も、幸内がこの会合の席まで来たということを知ったものはありません。一日や二日帰らないからと言って、それはいつもあることだから誰も不思議とは思いませんでした。ただ一人、心配なのはお銀様ばかりです。今日で約束した三日の期限が切れるのに、幸内がまだ帰って来てくれないことをお銀様は心配していました。三日の期限が切れたから、直ぐにお父様に咎《とが》められるというわけではないけれど、あの刀は秘蔵の刀である故に、心配になります。
それでも、幸内を信じたお銀様は、やがて幸内が持って帰ることと信じていました。
けれどもその三
前へ
次へ
全27ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング