はその時クルリと向き返って、スタスタともと来た方へ歩き出しました。お君はそのあとから傘を差しかけて追って行こうとするのをお銀様が、
「そっちへ行ってはなりません、そっちのお邸へ行ってはなりません」
命令するような強い声で呼び止めましたから、お君は立ち竦《すく》みました。
三郎様は大きな下駄を引きずって雨の中を笠も被《かぶ》らずに、悠々とあちらへ行ってしまいます。
「お前は、まだ知るまいけれど、此家《ここ》ではお互いの屋敷へは、滅多に往来《ゆきき》をしないようになっています。あの子はそれを申し聞かされているはずなのに、こんなところへ来たからそれで叱りました」
「はい」
「さあ、お前はお上り。あの犬はどうしました、犬が母屋《おもや》の方へ行って悪戯《いたずら》をするようなことはあるまいね」
「あの犬は悪いことは致しませぬ」
お君は再びもとの座に帰りましたけれど、このことからなんとなくそのあたりが白《しら》け渡ったようであります。
お銀様はせっかくお君を相手に、名所の話などをして興を催されようとしていた時に、三郎様が来てその御機嫌を、すっかり損《そこ》ねてしまったようであります。いかに大家とは言いながら、一つ屋敷のうちの親子兄弟別々に家を持っているさえあるに、弟は姉の住居《すまい》へ行っては悪い、姉は弟を送って行くことを止めるとは何ということだろうと、お君は何事もわからないで、ただ悲しい心になって気が深々と滅入《めい》るようでしたから、これではならないと思いました。
そうして、なんとかして不快になったお銀様の心を慰めて上げたいものだと思いました。けれども何といって慰めてよいか取附き場に苦しんでいましたが、そのうちにお君は、床の間に飾ってあった琴を見て、音曲の話を引き出しました。それはこの場合、お君にとってもお銀様にとってもよい見つけものでありました。
「まあ、お前、三味線がやれるの。それはよかった、わたしがお琴を調べるから、それをお前三味線で合せてごらん」
お銀様は大へんに喜びました。それで今の不快な感じが消えてしまった様子を、お君は初めて嬉しく思います。
その雨の日は、夜になっても二人の合奏の興が続きます。
四
神尾主膳はその後しばらく、病気と称して引籠《ひきこも》っておりました。引籠っている間も、分部とか山口とかいうその同意の組頭や勤番が始終《しょっちゅう》出入りしていました。今日はかねて前から企《くわだ》てをしておいたところによって、多くの人が朝から神尾の屋敷へ集まって来ました。
これは神尾の邸の裏の広場で試し物がある約束でありました。試し物はすなわち試し斬りであります。朝から神尾邸へ詰めかけて来た連中は、いずれも秘蔵の刀や自慢の脇差を持って集まりました。
あらかじめ罪人の屍骸《しがい》を貰って来てあって、斬り手の役は小林という剣道の師範役、それに勤番のうちの志願者も手を下して、利鈍《りどん》を試みるということであります。
たとえ罪人の屍骸とは言いながら、人間の身体《からだ》を試し物に使用するということはよほど変ったことであります。しかし、この変ったことを日本の古来においては立派なる一つの儀式としてありました。江戸の幕府では腰物奉行《こしものぶぎょう》から町奉行の手を経て、例の山田朝右衛門がやること。その時は物々しい検視場、そこへ腰物奉行だの、本阿弥《ほんあみ》だの、徒目付《かちめつけ》だの、石出帯刀《いわでたてわき》だのという連中が来てズラリと並び、斬り手の朝右衛門は手代《てがわ》り弟子らと共に麻裃《あさがみしも》でやって来て、土壇《どだん》の上や試しの方式にはなかなかの故実を踏んでやることを、ここに集まった勤番連中は、或る者は小林に試してもらったり、或る者は自分で試したりしてみることになり、見事に斬ったのもありました。斬り損じて笑い物になるのもありました。その度毎に刀の利鈍の評判が出ました。腕の巧拙の評判も出ました。或いは刀は良いけれども腕が怪しいと言われてしょげるもあり、刀はさほどでないが腕の冴えが天晴《あっぱ》れと言って賞《ほ》められるものもありました。
そのなかでも師範役の小林は、さすがに剣道の達者だけあって、斬り方がいちばん上手《じょうず》でありました。今までに試し物を幾度《いくたび》もやった経験や、盗賊を斬って捨てた経験を話して、一座を賑わせましたが、一通り試し物も済んでの上、弟子を連れて辞して帰ろうとする時分に、神尾主膳がそれを呼び留めました。
「小林氏、お待ち下さい、今日は貴殿に見ていただきたいものがある、貴殿の鑑定並びに並々方《なみなみがた》の御意見を聞いておきたい物がある、お暇は取らせぬによって、暫時《ざんじ》お待ち下されたい」
「してその拝見を仰付《おおせつ
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