ら、お前、その伊勢の国の話をしてごらん、わたしはどこへも出ることがいやだから、他《よそ》の国のことは少しも知らない」
「お嬢様なぞは、お出ましになってごらんあそばさずとも、御本や何かで御承知でございましょうから」
「名所図絵やなにかで、わたしも御参宮のことを知らないではないけれど」
「大神宮様あっての伊勢でございますから、あの通りはたいそう賑やかでございます、その賑やかなところで、わたしは暮らしておりました」
「そこで何を商売に?」
「それはあの……」
 かわいそうにお君は、また行詰ってしまいました。
 その時、温和《おとな》しく軒下に坐っていたムクは、何に気がついたのか頭を上げて外を見ました。築山の向うの方を暫らく見込んでいたのが、やがて立ち上ってのそのそと雨の中を歩いて行きました。それが様子ありげでしたから、お君もお銀様も共に犬の行く方をながめました。その時に、
「姉様」
と言って庭の方からこの場を覗《のぞ》いたものがあります。
「三郎さん、ここに来てはいけません」
とお銀様は叱るように言いました。
「それでも……」
「お帰りなさい、それにまあ、雨の中を傘もささないで」
 お銀様は呆《あき》れて見ていました。お君はやはり呆れたけれど、これはただ見ているわけにはゆきません。そこへ来たのは十歳ばかりの男の子であります。中剃《なかぞり》を入れないで髪をがっそう[#「がっそう」に傍点]にしていました。和《やわら》かい着物に和かい袖無羽織《そでなしばおり》を着て、さきに姉様と呼んだことから見ても、またお銀様が三郎さんと呼んだことから見ても、これはお銀様の弟の三郎様に違いないと思いました。それであるのに誰も附人《つきびと》なしに、一人で雨の中を笠も被《かぶ》らないで大人の下駄を穿いてそこへ、
「姉様」
と言って入って来たから、お君は呆れながらも黙って見ておられませんから、
「坊《ぼっ》ちゃま」
と立って抱いてお上げ申そうとするのを、お銀様が抑えて、
「いいえ、そうしてお置きなさい。三郎さん、お前はここへ来てはいけないというのに、ナゼ帰りません」
「だって……」
 三郎さんは、やはり雨の中に立ってお銀様の面《かお》をじっと見ていました。お君はどうしていいのかわかりませんでした。雨の中に傘なしで立った三郎さんの面《かお》を見ると、色の白い品の良いお子さんで、この大家の血統として申し分のないお子さんに見えましたが、ただその頬のあたりが子供にしては肉が落ち過ぎて、それがために、もともと人並より大きい眼が、なお一倍大きく見えるのであります。大きいけれども強い光はなく懶《ものう》いような色で満ちているから、品はよいけれども、どうも賢い子には見えません。
「ここへ来るとお母様に叱られますよ」
「でも……」
 三郎さんは大きな眼をキョロリとして、お銀様の方を見ていて立って動こうともしません。雨が降りかかって頭から面に雫《しずく》がたらたらと流れ、和《やわら》かい着物がビッショリと濡れてしまっても、少しも気にかけないのであります。それをまたお銀様は見ていながら、ただお帰りお帰りと言うだけで、立って世話をしてやるでもなければ、お君が立ちかけたのをさえ抑えてしまった心持が、どうしてもお君にはわかりません。
「早くお帰りというに」
 お銀様の権幕《けんまく》は凄《すご》くなりました。その釣り上った眼の中から憎悪《ぞうお》の光が迸《ほとばし》るように見えました。ただ姉が弟を叱るだけの態度ではなくて、眼の前にあることを一刻も許すまじき嫌悪《けんお》の念から来るもののようでしたから、お君はいよいよわからなくなって、ほとほと立場に苦しむのでありました。
「姉様、お菓子頂戴」
 それでも三郎さんは帰ろうとしないでこう言いました。そのくせ、姉の傍へは寄って来ないで遠くから、いじけるように姉の気色を伺って、やはり雨の中に立っているのでありました。キョロリとした大きい眼の瞳孔《どうこう》が明けっぱなしになってしまっているのを見るにつけ、このお子さんは人並のお子さんではないということを思うて、お君はお気の毒の感に堪えられません。
「いけません」
 お銀様はキッパリと断わってしまいました。
 見るに見兼ねたから、お君はお銀様の抑えるのも聞かずに立って下へ降りて来て、三郎さんの傍へ寄り、
「坊《ぼっ》ちゃま、雨がこんなに降っておりますから帰りましょう、お召物がこんなに濡れてしまいました」
「打捨《うっちゃ》ってお置きなさい」
 お銀様は相変らず怖《こわ》い面《かお》をしています。
「ね、わたしに背負《おんぶ》をなさいまし、あちらのお家へ帰りましょう」
 お君は自分のさして来た傘を廻して、それを片手に持ち三郎様へ背を向けました。
 お君がせっかく親切に背を向けたにかかわらず、三郎様
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