ょう》のあったところ。三面には岡があるけれど、城は平城《ひらじろ》、門の跡や、廓《くるわ》のあと、富士見御殿のあった台の下には大きな石がある。そのあたりは松の木や荊《いばら》が生い茂っている。神尾主膳が本通りを甲府へ帰りついた時分に、大泉寺の鐘が九ツを打ちました。その時分にこの古城のところを机竜之助が歩いていました。やはり宗十郎頭巾を冠《かぶ》って杖を持って刀を差している。その行先はいずれであるか知らないけれども、向って行くところは、やはり甲府の方面であります。
八
その晩、甲府八幡宮の茶所で大欠伸《おおあくび》をしているのは宇治山田の米友であります。
土間には炭火がカンカンと熾《おこ》っている。接待の大茶釜が湯気を吹いて盛んに沸いている。そこで米友は、こちらの畳の上に胡坐《あぐら》をかいて遠慮なく大欠伸をしています。
下には浅黄色《あさぎいろ》の短い着物を着て、上へ白丁《はくちょう》を引っかけて、大欠伸をした米友は、またきょとん[#「きょとん」に傍点]として大茶釜の光るのと、それから立ちのぼる湯気と、カンカン熾《おこ》っている炭火とをながめていましたが、
「どっこいしょ、燈籠《とうろう》のあかりを見て来なくちゃならねえ」
と言ってそこを立ちました。立つ時に米友は億劫《おっくう》そうに烏帽子《えぼし》を冠《かぶ》って、その紐を横っちょの方で結んで、銅の油差を片手に、低い床几《しょうぎ》を片手に持って、草履をつっかけて外へ出ましたのです。
「なんだか知らねえが、今夜はこの八幡様へでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が来るそうだから、それで燈火《あかり》を消しちゃあならねえのだ。でえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]というのは、どんな奴だか、これも俺《おい》らは知らねえが、恐ろしくでかい[#「でかい」に傍点]奴だという話だ。そのでえだらぼっち[#「でえだらぼっち」に傍点]が、この八幡へ喧嘩をしかけに来るから、それで八幡様の前を明るくしておけという神主様の仰せだ。だから俺らはその仰せ通り今夜は不寝番《ねずのばん》で、お燈明へ油を差して歩くんだ」
油差と床几を手に持って外へ出た米友が、こんなことを言いました。そうして社の鳥居のところから始めて幾つもある木の燈籠や、石の燈籠をいちいち見て歩いて、消えそうなやつへは油を差して歩きました
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