。
「それはそうであろう、伯耆の安綱ともいわれる刀で犬猫も斬れまいし、滅多に土壇《どだん》や巻藁《まきわら》をやっても物笑い、それこそ宝として飾って置くが無事だわい」
竜之助は寧《むし》ろ安綱を冷笑するような言葉つきでありました。
「折れても承知、その刀の真の切れ味が知りたい」
と神尾は言いました。
「折れて承知ならば、一番斬ってみようか」
竜之助はこう言いました。
「頼む」
神尾は透《すか》さずこう言いました。
竜之助は打返して、その刀を振り試みていました。
「よし、試してみよう」
竜之助はやはり巻藁か土壇を切るように容易《たやす》く請合《うけあ》ってしまいました。
「それでは、机氏」
と言って、主膳は伯耆の安綱を竜之助に預けて帰ろうとします。
「もう、お帰りか」
「このごろは甲府の市中が物騒でな、我々とても油断しては歩けぬ」
「物騒とは?」
「辻斬が流行《はや》るのじゃ」
「辻斬が?」
竜之助はこの時、苦笑いをしました。主膳は刀を差しながら、
「昨夜も、小林と申す剣道の師範役の高弟が斬られたのじゃ、斬った奴は何者だともまだわからぬ、奉行の手でもわからぬし、城内の者にも心当りがない、しかし斬り手は非常な腕だ、それで甲府の上下、身の毛を慄立《よだ》てているが、困ったものじゃ」
「うむ」
「もし貴殿の眼でも見えたなら、こういう時には、その曲者《くせもの》の眼に物見せてやろうものを、あたら英雄も目無鳥《めなしどり》では悲しいことじゃのう」
「目が見えたら辻斬をして歩く方へ廻るかも知れぬ」
「ははは、そうありそうなことじゃ」
神尾主膳はなにげなく笑いましたが、この時はじめて気のついたように、
「竜之助殿、あの長持の中の物、あれを貴殿にお任せ申そう、安綱の切れ味、ことによったら、あれで試して御覧あれ」
「よろしい」
主膳は別に長持へ近く寄ってそれを改めてみようともしませんでした。竜之助もまた長持から怪しい者が出て来て、自分の膝へ縋《すが》りついたということを語るでもありませんでした。その長持から出た怪しの者も、この時ははやジタバタするではありません。
こうして神尾主膳はこの古屋敷を出て行きました。甲府から半里、駕籠にも乗物にも乗らずに来て、玄関には草履取と提灯持兼帯の男が一人待っているばかりでした。
躑躅《つつじ》ヶ崎《さき》の古城は武田家の居城《きょじ
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