たび竜之助の膝にのたりつきました。その口を慌《あわただ》しく動かして、咽喉首《のどくび》が筬《おさ》のように上下するところを見れば、これは何か言わんとして言えないのでした。訴えんとして訴えられないものでありました。
 突き放され、突き放され、またのたりつく有様は他目《よそめ》には滑稽《こっけい》でもあるけれども、その当人は名状し難い苦しみにもがいているのです。如何《いかん》せん机竜之助は、それを滑稽として見ようにも、また苦悶の極みとして見ようにも、どちらにしても見て取ることができない人でありました。
 しかしながら、机竜之助の両眼が暗くて、その人の何者であるやを見て取ることができないにしても、たとえささやかながら行燈《あんどん》の火がある以上は、面《かお》も着物も真黒になってはいるけれど、見知った者には間違いなく、それは馬大尽の雇人の幸内であるということがわかるのであります。
 これは馬大尽の家の幸内でありました。伯耆《ほうき》の安綱の刀を持って出て行方《ゆくえ》知れずになった幸内が、今ここにこんな目にあわされていることを誰が知ろう。幸内はそれを今、神か仏か知らないけれども居合せた机竜之助に向って訴えようとするものらしいが、どうしても口が利けないらしい。
「神尾殿が来てなんとかするまで、もとのところで窮命しておれよ」
 竜之助は、やはり片手でさぐって、のたり廻る幸内の襟髪《えりがみ》を無造作《むぞうさ》に掴んで、部屋の隅へ突き飛ばしてしまいました。
 幸内を振り飛ばした机竜之助は、やがて手柄山正繁の一刀を腰に差して立ち上りました。
 振り飛ばされた幸内は、長持の隅のところへ投げ倒されたなりで、今度は動くことをしませんでした。そうしておいて竜之助は、懐中から宗十郎頭巾《そうじゅうろうずきん》を出して冠《かぶ》りました。頭巾を冠ってしまってから、座敷の隅をさぐるとそこに杖が立てかけてありました。その杖を手に取って、行燈の方へ静かに歩み寄って、その火を消そうとすると、廊下に人の足音がしました。それで竜之助は行燈を覗《のぞ》いたような形のままで、その足音に耳を傾けました。
 足音は廊下を伝ってこの座敷へ来るのであります。
「机氏、机氏」
と言って竜之助を呼びました。
「おお、主膳殿か」
 竜之助はそれを知って、燈火を吹き消すことをやめて、冠《かぶ》っていた頭巾を取って懐中へ
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