てしまいそうになってきた時も、竜之助は立とうとも動こうともしませんで、やはり冷然として、その刀を鞘に納めてしまいました。その途端に長持のいずれの部分かが、メリメリと裂けるような音がしたかと思うと、中からもがき出したのは一人の男。
 それはちょうど、紺屋《こんや》の藍瓶《あいがめ》の中へ落ちた者が、あわてふためいて瓶から這《は》い上るような形であります。面《かお》も着物も真黒でありました。
 古い長持であったから、それで錠前《じょうまえ》も刎切《はねき》れたものであろうけれど、それにしても中からそれを刎切るのは容易な力でありません。渾身《こんしん》の力を絞ってやっと蓋を跳上げて、箱の外へもがき出した一人の男は面も着物も、そっくりと紺屋の藍瓶へ漬けておいたように真黒くなっていました。そのもがき出す身ぶりによって見れば、両手を後ろへ廻して縛られた上に、両足をまた一つに絡《から》げてこの中へ投げ込まれていたものと見えます。
 竜之助は今しも鞘へ納めた手柄山正繁の刀を膝元へ引きつけたままで、ただそちらの方を見て坐っているばかりでありました。この刀は白鞘《しらさや》の刀ではありません。それは神尾が差しても竜之助が差しても恥かしからぬほどの拵えのある刀でありました。その刀をこころもち居合に取って、行燈の方向を少し避けるようにしたのは、ここに引寄せて斬って捨てようとの心構えに見えました。
 真黒になって手足を縛られた人間が、やっと立ち上った形は、大きな蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》が天上するような形であります。手足こそ縛られているけれども、いっこう猿轡《さるぐつわ》を箝《は》められた模様もないのに、口を利かないのはなぜだろう。なんとも言わないで、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》の天上するような形をしてやっと長持をもがき出した黒い人影は、人魚の児が這い出したようにして畳の上をのたくって、竜之助の方へと寄って来るのであります。
 のたりのたってその男は、ついに竜之助の膝のところまで来ると、その膝を枕にするようにして竜之助の面《かお》を打仰ぎました。
「叱《しっ》!」
 竜之助は左の手でそれを払い退けると、その男は執念《しゅうね》く再び竜之助の膝にのたりつくのであります。
「うるさい」
 竜之助は再びそれを払い退けました。払い退けられて男は三
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