日も過ぎてしまったその夜も、ついに幸内が帰りませんでした。夜が明けてお銀様は、やや強くそのことを心配しはじめた時分にこの屋敷へ、馬に乗って若党をつれた立派な武士が、不意におとずれて来ました。
 その武士が来て案内を乞うと、有野家の執事《しつじ》といったような老人がまず騒ぎはじめました。
「御支配様がおいでになった」
 その騒ぎがお銀様の部屋までも聞えると、
「御支配様がお見えになったそうな」
と、お附のようになっているお君を顧みてお銀様が言いました。
「御支配様とはどんなお方でございますか」
とお君が尋ねました。
「それはこの甲府のお城を預かって、勤番のお侍をお差図《さしず》なさるお方」
とお銀様が説明しました。
「それではあの、甲府のお城の殿様でございますね」
とお君が受取りました。
「この甲府には大名はないけれど、あの御支配様が同じお勤めをなさいます」
「こちら様へはたびたび、その御支配様がおいでになるのでございますか」
「いいえ、滅多にそんなことはありませぬ、もしそんなことのある時は、前以てお沙汰があるのに、今日はどうしてまあ、こんなに不意においでになったのでしょう」
 不意にこの馬大尽《うまだいじん》へ訪ねて来たのは駒井能登守でありました。
 新任の勤番支配が何用あって、先触《さきぶれ》もなく自身出向いて来られたかということは、この家の執事を少なからず狼狽《ろうばい》させました。
「馬を見せてもらいたいと思って、遠乗りの道すがらお立寄り致した次第、このまま厩《うまや》へ御案内を願いたいもの」
 こう言われたので執事は安心しました。
 こうして駒井能登守は、有野村の馬大尽の伊太夫に案内されてその厩と牧場《まきば》を見廻っています。能登守には若党と馬丁とが附いていました。伊太夫には執事の老人と若い手代とが附いていました。伊太夫は六十ぐらいの年輩でありました。馬を見ながら、あるところは能登守の説を謹んで聞き、あるところは能登守に教えるようなことがあります。
「名馬というものは滅多に出て参るものではござりませぬな、こうして数ばかりはいくらか揃えてござりますれど、いずれを見ても山家《やまが》育ちで……せめてこのなかから一頭なりともお見出しにあずかりますれば、馬の名誉《ほまれ》でござりまする、また拙者共の名誉でござりまする」
 こう言って厩を見て行ったが、一つの馬の前へ
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