来ると能登守が、しばらく足を留めていました。伊太夫その他の者もまた同じくその馬の前でとまりました。
「この馬は強い馬らしい」
 能登守が立って見ている馬は、今まで見て来た馬のうちでいちばん強そうな栗毛《くりげ》の馬でありました。
「よくそれにお目がとまりました、その辺がここでは逸物《いちもつ》でございましょうな、牧場の方へ参ると駒で一頭、ややこれに似た悍《かん》の奴がござりまするが」
「これで丈《たけ》は?」
 手代が主人に代って、
「四寸でござりまする」
「なるほど」
 能登守は、まだいろいろとその馬をながめていました。
「お気に召しましたらば、一責《ひとせ》め責めて御覧遊ばしませ」
 伊太夫は傍から勧めました。
「どうも、拙者には、ちと強過ぎるようじゃ、馬はまことに良い馬だけれど」
「左様なことはございますまい」
「昔、楠正成卿は三寸以上のを好まれなかったとやら。四寸の強馬《つようま》は分に過ぎたものに違いないが、しかし乗って面白いのは、やはり少々分に過ぎたものを乗りこなすところにあるようじゃ」
「左様でございますとも、そのお心がけさえおありなされば、どのようなお馬にお召しなされてもお怪我はあるまいと存じまする。それに私共にては、見所《みどころ》のありそうな馬には、昔の掟《おきて》通り白轡《しろくつわ》五十日、差縄《さしなわ》五十日、直鞍《すぐら》五十日を馬鹿正直に守って仕込ませました故に、拍子《ひょうし》もわりあいによく出来ているつもりでござりまする」
 伊太夫はこんなことを能登守に向って語りました。能登守はこの栗毛の馬に乗ってみようという心を起しました。
 ほどなく能登守が馬に乗って勇ましく馬場を駈けさせる姿を、伊太夫はじめこちらから見ていました。
 それとは少し異《ちが》ったところで、
「お君や、あのお方が御支配様でありましょう」
と言って、椿の木の下でお君を招いたのはお銀様であります。
「まだお若い方でございますね」
 お君も木の蔭に隠れるようにして、やや遠く能登守の馬上姿を見ていました。
「ほんとに、まだお若い方」
とお銀様が言いました。お君が気がつくと、お銀様が馬上の御支配様を見ている眼の熱心さが尋常でないことを知りました。
 お銀様も、やはりお若いお嬢様である。お若い殿方を見るのはいやなお気持もなさらないものかと、お君はそぞろに気の毒になってきまし
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