はその時クルリと向き返って、スタスタともと来た方へ歩き出しました。お君はそのあとから傘を差しかけて追って行こうとするのをお銀様が、
「そっちへ行ってはなりません、そっちのお邸へ行ってはなりません」
 命令するような強い声で呼び止めましたから、お君は立ち竦《すく》みました。
 三郎様は大きな下駄を引きずって雨の中を笠も被《かぶ》らずに、悠々とあちらへ行ってしまいます。
「お前は、まだ知るまいけれど、此家《ここ》ではお互いの屋敷へは、滅多に往来《ゆきき》をしないようになっています。あの子はそれを申し聞かされているはずなのに、こんなところへ来たからそれで叱りました」
「はい」
「さあ、お前はお上り。あの犬はどうしました、犬が母屋《おもや》の方へ行って悪戯《いたずら》をするようなことはあるまいね」
「あの犬は悪いことは致しませぬ」
 お君は再びもとの座に帰りましたけれど、このことからなんとなくそのあたりが白《しら》け渡ったようであります。
 お銀様はせっかくお君を相手に、名所の話などをして興を催されようとしていた時に、三郎様が来てその御機嫌を、すっかり損《そこ》ねてしまったようであります。いかに大家とは言いながら、一つ屋敷のうちの親子兄弟別々に家を持っているさえあるに、弟は姉の住居《すまい》へ行っては悪い、姉は弟を送って行くことを止めるとは何ということだろうと、お君は何事もわからないで、ただ悲しい心になって気が深々と滅入《めい》るようでしたから、これではならないと思いました。
 そうして、なんとかして不快になったお銀様の心を慰めて上げたいものだと思いました。けれども何といって慰めてよいか取附き場に苦しんでいましたが、そのうちにお君は、床の間に飾ってあった琴を見て、音曲の話を引き出しました。それはこの場合、お君にとってもお銀様にとってもよい見つけものでありました。
「まあ、お前、三味線がやれるの。それはよかった、わたしがお琴を調べるから、それをお前三味線で合せてごらん」
 お銀様は大へんに喜びました。それで今の不快な感じが消えてしまった様子を、お君は初めて嬉しく思います。
 その雨の日は、夜になっても二人の合奏の興が続きます。

         四

 神尾主膳はその後しばらく、病気と称して引籠《ひきこも》っておりました。引籠っている間も、分部とか山口とかいうその同意の組頭
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