もしなければ裂きもしないで、もとのように丁寧に封をします。
 好奇の隣りには、いつでも罪悪が住んでいる。物を弄《もてあそ》ぼうと思えば必ず己《おの》れが弄ばれる。お絹は悪い計画をする女ではないにかかわらず、男を見るとこういういたずら心が起って、兵馬を口説《くど》いてみたり、竜之助の時の留女《とめおんな》に出てみたり、がんりき[#「がんりき」に傍点]を調戯《からか》ったりしていたのが、ここへ来ると駒井能登守を、また相手にする気になってしまいました。
 能登守の手紙を見てしまったことが何か能登守の弱点を押えたように思われて、その取っておいた筆蹟から、或いは能登守を困らせてやるようないたずらができまいものでもあるまいと思っていました。
「友さん、友さん」
 お絹は次の間に控えている米友を呼びましたけれども返事がありませんから、
「どうしたんだろう、疲れて寝込んでしまったのかしら」
と独言《ひとりごと》を言っている時に、与力同心の部屋に宛《あ》てられたところで哄《どっ》と人の笑う声がしました。それと共に、
「笑っちゃいけねえ」
という声は米友の声であります。
「もうお役人衆の傍へ行って話し込んでいると見える。罪のない人だけれど、また間違いを起さなければよいが」
 大勢を相手にしきりに話し込んでいる米友を呼び出すも気の毒だと思って、お絹は自分でその手紙を主人のところへ持って行こうとして廊下へ出ました。
 お絹が廊下へ出て見ると、あの部屋の障子には幾多の侍の頭と米友の頭がうつって見えます。障子に映ってさえ米友の頭はおかしい頭でありました。よくあの頭で人中へ出られるものだ、せめて頭巾でも被って出るか、そうでなければ、かなり頭の毛が生《は》え揃《そろ》うまで人中へ出ないようにしていたらよかろうにと思いました。ところが米友はいっこう平気で、
「一生稽古したって駄目な奴は駄目なんだ、俺《おい》らなんぞは木下流の槍の手筋を三日しか稽古しねえんだ、木下流とも言えば淡路流とも言うんだ、三日稽古をしてその秘伝《こつ》をすっかり呑込んでしまったんだ」
 何を言ってるのかと思えば、槍の自慢でありました。与力同心の連中へ、坊主頭を振り立てて、槍の自慢をしていることがありありとわかります。
 与力同心の連中は、一人の米友を真中へ取りまいて、いずれも面白半分な面《かお》をしてその話を聞いているところであります。
 面白半分な面をして聞いているのはまだ真面目《まじめ》な方で、米友がこの部屋へ入って来る早々から笑いこけて、いまだにゲラゲラ笑っているものもあります。もう腹の皮を痛くしてしまって、このうえ笑えないで苦しがっているようなのもあります。
 これは米友が好んでここへ押しかけて来たのではありません。彼等は早くもこの宿へ米友が来たということを知って、相当の礼を以て招《まね》いたから米友はここへ来たのでありました。
 与力同心は、米友の頭を見て笑ってやろうというような心で米友を招いたのではなく、この不思議な人物の持っている、不思議な能力を解決してみたいからでありました。
 しかしながら、招かれて来た米友の頭を見た時は哄《どっ》と笑ってしまいました。人を招いておきながら、その人の入って来るのを見て、声を合せて笑い出すということは礼儀ではありませんけれども、つい笑ってしまいました。しかし笑われても米友は必ずしも腹を立てませんでした。
「笑っちゃいけねえ」
と言って座に着いてから、やがて話が槍のことまで及んで来て、
「一生稽古したって駄目な奴は駄目なんだ、俺らなんぞは木下流の槍の手筋を三日しか稽古しねえんだ、木下流とも言えば淡路流とも言うんだ、三日稽古をしてその秘伝《こつ》をすっかり呑込んでしまったんだ」
という気焔を上げています。

         七

 お絹が手紙を持ち扱い、米友が与力同心の中で気焔を吐いている間に、お松は風呂場で駒井能登守の世話をしておりました。
 お松は次の間に控えて、能登守の風呂から上るのを待っています。
 その間に兵馬のことを考えています。いま甲府の牢内に囚《とら》われているという兵馬を助けんがためには、神尾主膳に頼ることが最良の道であることに七兵衛もお絹も一致しているが、お松には神尾の殿様という人が、それほど頼みになる人とは思われません。ここにおいでなさる駒井能登守という殿様は、神尾の殿様よりも一層頼みになりそうな殿様であると、こう思わないわけにはゆきません。甲府勤番支配は、ある意味において、甲州の国主大名と同じことだと言ってお絹から聞かされました。神尾の殿様に比べて強大な権力を持っている人だということもお絹から聞かされました。その上に、ちょっとお目にかかっただけでも、大層お優しい方だとお松は頼もしく思いました。神尾の殿様とは、以前の知行高は同じぐらいであったそうだけれども、その人品は大へんな相違があると思いました。それですから、もし神尾の殿様に願って通らなかった時は、この殿様に願えば必ず叶《かな》えて下さるだろうと思われてなりませんでした。或いは神尾の殿様に願わない前に、この殿様にお願いした方が、事がすんなりと運ぶだろうと、お松はそこまで考えてきました。それでこの殿様に、この意味で取入っておくことが幸いであると気がつきました。お絹がお松をして能登守に取入らせようという心と、お松が自身で能登守を頼ろうとする心とは全く別なのであります。
 そう考えてくると、お松はこの時が好い機会であると思わないわけにもゆきませんでした。同じ甲府へ行く旅にしても、身分も違えば目的も違う、この後、こんなに親しくお目にかかれる機会があるかどうかわからぬとお松はそこへ気がついたから、どうしても今宵《こよい》を過ごさず能登守に向って、兵馬の身の上のお願いをしてみるほかはないと、心が少しいらだつようになりました。
 こんなことを考えている時に、能登守は風呂から上った様子でありましたから、お松は立って行きました。そうしてお松は、能登守の着物を着替える世話をしてやりました。能登守はお松の親切を喜んで、打解けて見えます。
 お松は言い出そう、言い出そうとしましたけれども、つい言い出しにくくなって、お願いがございますと咽喉まで出てそれが言えないで、自分ながら気がいらだつのみであります。
 お松が能登守のために雪洞《ぼんぼり》を捧げて長い廊下を渡って行く時に、笹子峠の上へ鎌のような月がかかっているのが見えました。
 能登守は静かに廊下を歩きながら、その月を振仰いで見ました。
「そなたは、江戸からこんなところへ来て淋しいとは思わないか」
と能登守はお松を顧《かえり》みてこう言ってくれました。その言葉があったために、さっきから一生懸命で、言い出そう言い出そうとしていたお松は一時に力を得て、
「いいえ、淋しいとは思いませぬ、少しも」
と言葉にも力を入れて返事をしました。
「それはえらい」
と言って、能登守は賞《ほ》めたけれど、お松の言葉よりは鎌のような月の方に見恍《みと》れているのでありました。
「殿様」
 お松はここでせいいっぱいに殿様といって能登守を呼びかけましたけれど、自分ながらその言葉の顫《ふる》えていることに驚いたくらいでありました。
「なに?」
 能登守は、お松の改まった様子を少しく気に留めた様子です。
「あの、お願いでござりまする」
とお松は、いよいよ改まった言葉でありました。
「願いとは?」
 能登守は鎌のような月を見ていた眼を、お松の方へ向けました。そうして雪洞《ぼんぼり》の光に照らされたお松の面《かお》に一生懸命の色が映っていることを認めて、これには仔細《しさい》があるだろうと感じました。
「あの、わたくしどもが甲府へ参りまするのは、冤《むじつ》の罪で牢屋につながれている人を助けに参るのでございます」
「人を助けに?」
「それ故、殿様のお力添えをお願い致したいのでございまする」
 お松は夢中になってここまで言ってしまいました。ここまで言ってしまえばともかくも安心と、ホッと息をつきました。
「果して冤《むじつ》の罪であるものならば、わしの力を借りるまでもなく罪は赦《ゆる》される。もし、まことに罪があるものならば、わしが力添えをしたとてどうにもなるものではない」
と能登守は、お松の願いの筋には深く触れないで、やや慰め面《がお》にこう言っただけでした。しかしお松はもう、一旦切り出した勇気がついたから、その頼みの綱を外《はず》すようなことはしません。
「いいえ、たしかに冤《むじつ》の罪なのでございまする、その方は決して盗みなどをなさる方ではないのでございまする、公儀様の御金蔵を破るなどという、だいそれたことをなさるお方でないことは、わたしが命にかけてもお請合《うけあい》を致しまする、それがあらぬお疑いのためにただいま御牢内に繋《つな》がれておいであそばす故、わたくしは心配でなりませぬ、何卒してそのお方をお助け申し上げたいと、それでわたくしどもは甲府へ参りますのでござりまする、甲府へ参りまして、神尾主膳様からそのお願いを致すつもりでございますが……」
 お松は一息にこれだけを言ってしまいました。能登守は、お松の願うほど熱心にそれを聞いたのか聞かないのか知らないけれど、笹子峠の上にかかった鎌のような月にばかり見恍れているのであります。
 そのうちに廊下を渡り了《おわ》って、能登守の居間の近くまで来ました。

         八

 お松が帰って来た時分に、お絹のいなかったことは別に怪しいことではありません。
 お絹は風呂から出ると、浴衣《ゆかた》を引っかけたままで暫く渓流に臨んで湯上りの肌を、山岳の空気に打たせていました。
 前にいう通り、すぐ眼の上なる笹子峠には鎌のような月がかかっている。四方の山は桶《おけ》を立てたようで、桂川へ落ちる笹川の渓流が淙々《そうそう》として縁の下を流れています。
 自分にいい寄って来る男を物の数とも思わないような気位が、年と共に薄らいでゆくことが、自分ながらよくよくわかります。それ故にがんりき[#「がんりき」に傍点]とお角とが仲よくして歩くところを見ると嫉《や》けて仕方がありませんでした。
 有体《ありてい》に言えば今のお絹は、男が欲しくて欲しくてたまらないのであります。男でさえあれば、どんな男でも相手にするというほどに荒《すさ》んでくることが、このごろでもたえず起って来るようでありました。
「あの、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という男、御苦労さまにわたしたちを附け覘《ねら》ってこの甲州へ追蒐《おっか》けて来たが、あの猿橋で、土地の親分とやらに捉まって酷い目にあったそうな、ほんとにお気の毒な話」
とお絹は、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことと、それが猿橋へ吊されたという話を思い出して、ほほ笑み、
「七兵衛が助けると言って出かけたが、ほんとに助かったか知ら。酔興とは言いながら、かわいそうのような心持がする、何のつもりか知らないけれど、わたしを追蒐けて来たと思えば、あんな男でもまんざら憎くはない、命がけで、わたしの後を追蒐けて来る心持が可愛い」
 今となっては、たとえ無頼漢《ならずもの》であろうとも、自分に調戯《からか》ってくれる男のないことが淋しいくらいでありました。
 こんなことをいつまで考えていても際限がないと、お絹は浴衣の襟をつくろってそこを立とうとした時に、縁の下の笹藪《ささやぶ》がガサと動いて、幽霊のようなものが谷川の中から、煙のように舞い出した。あれと驚くまもなくお絹の首筋をすーっと一巻き捲いてしまいました。
「何を……何をなさるの……」
 その幽霊のようなものは、お絹の首筋をすーッと捲いて、その面《かお》を自分の胸のあたりへ厳しく締めつけたものだから、それでお絹は、言葉を出すことができなくなってしまいました。
「御新造《ごしんぞ》、がんりき[#「がんりき」に傍点]だ、百だよ」
と言って、有無《うむ》を言わさず縁の下へ引き下ろしてしまいました。
 河童《かっぱ》に浚《さら》われるというのは、ちょうどこん
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