して二人につづいて上り込んで来たから、誰もそれを見て吹き出さないわけにはゆきませんでした。
「兄さん、お前の頭を見て皆さんが笑っていますよ」
お絹は振返って米友の頭を見て、自分もおかしくなって口を袖で隠しました。
「でも家ん中で笠を被《かぶ》るわけにはいかねえ」
といって米友が不平な面をしましたから、お松はそれがまたおかしくって笑いました。
能登守の一行は「なるほど、こいつだな」と思いました。昨日、鶴川での出来事を知っているだけによけいにおかしくなります。
「生《は》え揃《そろ》うまで頭巾《ずきん》でも被っていたらいいでしょう」
「鶴川の雲助の野郎が、こんなにしやがった、ほんとに憎らしい野郎共だ」
米友は口の中でブツブツ言って、自分の頭をこんなにした雲助どもを呪《のろ》います。
米友は、お絹とお松とがいる次の部屋へ陣取り、お絹お松の部屋と中庭を隔《へだ》てたところがすなわち駒井能登守の部屋であります。
お絹は取敢えず御都合を伺った上で、能登守のところへお礼を申し上げに行ってきました。
能登守は快《こころよ》くお絹と対談して女連の道中を慰めたりなどしました。駒井の許《もと》を辞して帰ってからお絹の胸には、駒井能登守を対照としての一つの心持が浮びました。
甲府へ行けばこの人は、自分の元の主人の神尾主膳の上へ立つ人だと思いました。同じ旗本でありながら、一方は支配する人、一方は支配される人とお絹は思いました。
そうして、自分よりも年が若いし、神尾よりもまた若い駒井能登守の幅が利くのかと思うと憎らしくなりました。なんとかしてやりたいという気になりました。
お絹の思うには、けっきょく男は脆《もろ》いものであるということでした。まだ三十前後の能登守、たとえ相当の学問や才気があったところで知れたものである。固いということは、女に接する機会がない間に限ったことで、相当の手練《しゅれん》を以てすれば、男は必ず色に落ちて来るものである。固いようなものほど落ちはじめたら速度が強いということが、お絹の日頃から持っている信念でありました。だから駒井能登守が、いま甲州道中を、飛ぶ鳥を落す勢いで練って行く時に、これをどうにかしてやりたいということは結局、お絹が持っている唯一の信念から出立するということに帰着しますので、大へんやかましいことです。
駒井能登守に会ってお礼を言ってから、そんな心持を起してお絹は自分の部屋へ帰って来て、
「お松や」
「はい」
お松は静粛《しとやか》に返事をしました。
「お前は後程お茶を立てて駒井の殿様に差上げておいでなさい、それから、まだお風呂がお済みにならぬ御様子だから、お前は殿様のお伴《とも》を申し上げてお風呂のお世話を申し上げねばなりませぬ。こんな山家《やまが》のことで、気の利いた女中はいないし、ああして殿方が女気なしの旅をしておいでなさるのは、何かにつけて御不自由でいらっしゃるし、こうして今夜も私たちが安心して宿へ着くことのできたは、みんなあの殿様のおかげ、それにあのお方は甲府の勤番支配といって、うちの殿様よりはズット上席のお方、神尾の殿様はあれだけのお方だけれど、この駒井の殿様はこれからお大名になるか御老中になるか、出世の知れないお方」
お絹は、こう言ってお松を説きました。お松はいちいちそれを聞いていましたけれど本意でないことがいくらもあります。自分の甲府へ行こうというのは、神尾の殿様だとか、駒井の御支配様だとかいうお方のお気に入られようと思って来たはずではないけれど、ともかくもこの場合、一通りの御用と御挨拶はつとめねばなるまいと思いました。好意を持ってくれた目上の人に対する礼儀という心から、そうせねばならないものかと思いました。
六
駒井能登守はこうしていても、毎日宿へ着くと、書類を調べたり手紙を認《したた》めたりすることでほとんど暇がありません。
書類の多くは公用のもの、手紙は公用と私用とが相半《あいなかば》するくらいでありました。それらを一通り処理してしまったあとで、能登守が興味を以て書く手紙が一つありました。
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「今日は笹子峠の麓なる黒野田といふ処に泊り申候、明日笹子峠へかかる都合に御座候、これより峠を越えて峠向ふの駒飼《こまかひ》といふ処まで二里八丁の道に候、小仏峠と共に此の街道中での難所に候、笹子を越え候はば程なく勝沼にて、それより甲府までは一足に候、さすがに峡《かひ》と申すだけの事はありて、中々難渋な山道に候へども一同皆々元気にて、名所古蹟などを訪《とぶ》らひつつ物見遊山《ものみゆさん》のやうな心持にて旅をつづけ居り候、また人事にも面白き事多く、土地の名物や風俗などにも少しく変つた事|有之候《これありそろ》、言葉もまた江戸より入り候へば甲州特有の言葉ありて面白く覚え候、昨日はまた甲州|名代《なだい》の猿橋といふのを通り申候、これは名所絵などにて御身も御承知の事と存じ候へ共、猿が双方より手を延ばしたるやうの形にて、土地の人は橋より水際まで三十三|尋《ひろ》、水際より水底まで三十三尋も有之候様に申し居り候処、その間に一本の柱も無く組立て候事が奇妙に御座候、甲州は評判の如く荒き処あり、途中も心して見聞致し居り候。
さて御身の御病気は如何に候や、われら斯《か》くの如き愉快なる旅をつづけ居り候うちにも常に心にかかり候はこの事のみに候、追々寒さにも向ひ候べく、一しほお厭《いと》ひなさるべく候、昨日受取り申候たよりによれば少しく快方との事、やや安心は致し候へども、甲府入りを致したしとは以ての外に候、少々快方に向ひたればとて心に弛《ゆる》みを生じてはならず候、再三申し候通り此の道は男子も憚る険道、それを女の身にて、殊に病中の身にて旅立たんなどとは想ひも及ばぬ事に候、左様の心を起さず当分は御静養専一に可被成候《なさるべくそろ》、冬を越して来春身体と共に陽気の回復する頃を待ちて御入国なされ候へ。
今日も女連の二人の者同じく江戸より出でて甲府へ赴く由にて此の宿へ着き申候、御身が甲府入りを致したしとの書状と思ひ合せてをかしく存じ候、右の婦人達もたえず駕籠乗物に揺られ、人気の険しさに胆《きも》を冷し随分難渋のやうに見受けられ笑止に存候」
[#ここで字下げ終わり]
駒井能登守には奥方があるのでした。それはこの手紙によっても察することができるようにかなり重い病気、かなり永い患《わずら》いにかかって江戸に残されているのです。その奥方に宛てて能登守が毎日のように手紙を書いては送り、奥方からもまたこの道中の都度都度《つどつど》に音信のあることがわかります。能登守も若いから奥方も若いに違いない。能登守も綺麗な人だから奥方も美しい人に相違ない。若くて美しい二人は結婚して、そんなに長い間でないこともわかっています。新婚の若い男と女、たとえお役目柄の厳《いか》めしい能登守にも情愛がなければならぬはずであります。ましてや奥方にはそれに一層の深い情愛がなければならぬはずであります。重い病気と、永い患いとが二人の中を隔てました。その隔てはこうして毎日のように書いているおたがいの消息によって、美しく結ばれているということが想像されるのであります。
駒井能登守が手紙を書き終ったところへ、お絹から言いつけられた通りにお松がお茶を捧げて入って来ました。
「御免あそばしませ」
「これはこれは」
と能登守は言いました。
能登守は風呂に入る前に、書類や手紙の用を済ましてしまうのが例であります。お松がお茶を捧げて来たのはちょうどよい折でありました。
能登守は、お茶を捧げて来たお松の様子を見ると、どうもこの宿あたりにいる女中とは思われないから、
「そなたは、この家の娘御《むすめご》か」
と言って尋ねてみました。
「さきほどは伯母が上りましてお目通りを致しました」
「あ、左様であったか」
宿を周旋してやったためにお礼に来たさきほどの女、この娘はその連《つれ》か、そうしてさきほどの女が気を利かして、この娘にお茶を持たしてよこしたのだろうと思い当りました。
「何ぞ、御用がござりましたなら、仰《おお》せつけ下さるようにとの伯母の申しつけでござりまする」
と言って、お松は能登守の前に指を突きました。
「それは御親切ありがたいが、別に用事といって……」
能登守はちょうど眼を落したのが、いま書いていた手紙であります。せっかくのことに、
「大儀ながらこの手紙を、明朝の飛脚で江戸へ届けてもらうように、この宿の主人へ手渡し下されたい」
と言って、その手紙を拾ってお松に渡しました。
「畏《かしこ》まりました」
「あの先刻の婦人は、そなたの伯母でありましたか」
「はい」
「よろしく申して下されよ」
お松はこうしてお茶を捧げて来て、手紙を持って能登守の許をさがる時に、まことに好い殿様だと思いました。怖《こわ》いお役人様のお頭《かしら》であろうと思って来たのに、打って変って優《やさ》しく思いやりがありそうで、そうかと言ってニヤけた御人体《ごにんてい》は少しもなく、気品の勝《すぐ》れていることを何となく奥床《おくゆか》しく感じてしまいました。
お絹はお松が能登守から頼まれたという手紙を自分が受取って、お松に向っては、
「今、殿様がお風呂においであそばしたようだから、お前は行ってお世話を申し上げて下さい、失礼のないように」
と言いつけました。
お松はその言いつけをも、温和《おとな》しく聞いて風呂場の方へ行きました。そのあとでお絹は能登守の手紙を手に取ってつくづくと眺めていました。表には「江戸麹町二番地、駒井能登守内へ」と立派な手蹟で認《したた》めてあります。
それを見ると、お絹はまたむらむらと変な心が起りました。この手紙は能登守からその可愛い奥方に送る手紙だと感づいてみると、お絹の心が穏やかでありません。能登守の奥方にはまだお目にかかったことはないけれど、能登守があの通り若くて綺麗な人だから、奥方もまた若くて美しい人に違いないとは誰でも想像されることであります。そういうことにはことに敏感なこの女は、あんまり人をばかにしているとこう思いました。お安くない夫婦の間の音信をこのわたしたちに見せつける能登守の仕打《しうち》を憎いと思いました。能登守のような若い殿様に可愛がられる奥方は、どんな人か面《かお》が見てやりたいように思いました。自分たちにそういう心を起させようがために、お松に頼まないでもよい手紙をワザと持たしてよこして、これ見よがしに見せびらかすのではないか。
これは能登守にとっては非常に迷惑な邪推であります。
「よしよし、そういうわけならばこの手紙の中を見てやりましょう。どんな憎らしいことが書いてあるか見てやりましょう、ほんとに癪《しゃく》に触るから見てやりましょう」
お絹もそれほど悪い女ではないけれど、情事にかけると、いつも好奇心がいたずらをします。そのいたずらが、暗い中でうごめき出すのを抑えきれないという悪い癖がありました。
それでも女のことで、荒らかに封を切るということはなく、楊枝《ようじ》の先で克明《こくめい》に封じ目をほどいて、手紙の中の文言《もんごん》を読んでみると、それがいよいよいやな感じを起させてしまいました。
この手紙の中は夫婦間の美しい消息を以て満たされている。遠く旅に行く夫の心と、病んで家に残る妻の心との床しい思いやりが溢れています。その美しい消息と床しい思いやりとが、お絹の心持をさんざんに悪くしてしまいました。
人の手紙というものは、見るべきものでも見せるべきものでもないのに、それを盗んで見るということはこの上もない卑劣なことで、お絹もそこまで堕落した女ではなかったのだけれど、好奇《ものずき》から出立して、我を失うようになるのは浅ましいことであります。
その手紙を読んでしまったあとでお絹は、ついにその筆蹟をうつすというところまで進んで来ました。駒井能登守の筆蹟を透《す》きうつしにして取ってしまいました。これはどういうつもりか知らん。さすがにそれからあとを破り
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