はゆかぬ、太閤が出なければ日本の歴史がまたどんなふうになっていたか見当がつかぬ。それを考えると、信玄、謙信という人たちの日本の歴史上の潜勢力もまた大きなものと言わねばならぬ」
「しかし、実際の力はどうであったろう、信玄や謙信が果して信長や太閤や東照公と戦って、それを倒し得たであろうか。それらの人たちも、小競合《こぜりあい》はしたけれども、本場所で晴れの勝負をしたことはないから、ほんとうのところはいずれが勝《まさ》りいずれが劣ると判断はつけられまい」
「そりゃわかりきった問題だ、謙信に対する信長は、いつも勝味《かちみ》がなかった、謙信は信長を呑みきっていた、信長はたえず威圧されて怖れていた、謙信が、いで北国人の手並を見せてくれんと、まさに兵を率いて京都へ来たらんとする時、信長は蒼くなって慄《ふる》え上った、ちょうどその京都へ出ようとする途端に謙信が病気で死んだ時は、信長はホッと息をついて、手に持っていた箸《はし》を抛り出したというではないか」
「それはそうであったかも知らぬ、それを事実とすれば信長というものがあまりに弱い、少なくとも木下藤吉郎を家来に持っていた信長、味方の全軍が覆没しても驚かず、桶狭間《おけはざま》で泰然としていた信長、たとえ一|目《もく》なり二目なり置いていたとはいえ、そう無惨《むざん》な敗れを取るようなこともなかったろうと思う」
「どうして、今川義元や斎藤|道三《どうさん》、或いは浅井朝倉あたりとは相手が違う、謙信があの勢いでもって、北国から雪崩《なだれ》の如く一瀉千里《いっしゃせんり》で下って来て見給え、木下藤吉郎なんぞも、まだ芽生《めばえ》のうちに押しつぶされて安土《あづち》の城が粉のようになって飛ぶ。謙信をもう少し生かしておいて、あの勝負だけはやらせてみたかった」
「ところで、そうなると、武田信玄が黙って見てはいない。信玄と謙信とは、今いう通り型が違って力は互角であったけれども、気位の上では信玄は謙信を白い眼で見ていたようなところがあるわい。謙信を都へ上せて織田と噛み合わせたそのあとで、ねちりねちりと道草を食って腹を太らせながら乗り込んで行くという、しぶとい芸当をやるのがこの入道だ。不幸にしてその時は、あんまり坊主の当り年でなかったと見え、武田入道が亡くなる間もなく上杉入道がなくなった」
「謙信が死んで悦《よろこ》んだのは織田公だが、信玄が亡くなって運が開けたのは家康公だ、謙信あるうちは信長公の志は遂げられなかったように、信玄存する間、家康公も実際手も足も出せなかった御様子だ」
「しかし、信長公も家康公も、信玄、謙信とはともかくも手合せをしておられるけれど、太閤だけは、ついぞ張り合ってみたことがないようでござるが、あの太閤の軍《いくさ》ぶりと、信玄、謙信あたりと掛け合わせてみたらどんなものであったろう。信玄、謙信に向っては織田公も家康公も二目も三目も置いたような軍《いくさ》ぶりをしておられたが、太閤ならばどんなものであったろうか知ら」
「それは手合せがなかっただけに面白い見立《みたて》にはなる。後に太閤の世になってから、太閤がこの甲州へ来て、信玄の木像を叩いていうことには、お前も早く死んで仕合せな坊さんだ、いま生きていたならばおれの馬の先に立って、下座触《げざぶれ》をするようなことになるのだと言って笑ったそうだが、太閤の眼から見ると、そんなものであったかも知れない」
「いや、太閤という人は、派手師《はでし》で人気を取るのが上手、いつもそんなことを言って人を慴伏《しょうふく》させるのだが、信玄とても、それほどやすくはない。現に太閤なども家康公の弓矢には閉口しておられた、その家康公を苦しめたほどの信玄だから、太閤のような派手師にとっては、謙信よりも信玄の方が苦手かも知れぬ」
 こんな話をして小山田備中の城、岩殿山の前をめぐりながら進んで行く。
「この城によって反《そむ》いたものがあるから、勝頼が天目山にちぢまって最期《さいご》を遂げることになってしまったということじゃ。小山田備中は果して忠臣であり、勇士であったろうか知らん。とにもかくにも要害は要害じゃ」
 大月を過ぎて初狩、立川原《たてかわら》、白野《しらの》から阿弥陀《あみだ》街道を練って行く。
「山国とは言いながら、どっちを見ても山ばかり、よくもこう山があったものじゃ。岩殿山が要害なばかりではない、甲州全体が一つの要害じゃ、小仏なり、笹子なりに兵を置けば、いかなる大軍も攻め入る手段《てだて》はなかろう、一夫これを守れば万卒も越え難しというのはまさにこれじゃ。東の方はこれで、南はまた富士川口があるばかり、西と北とは山また山、信玄も豪《えら》かったには相違ないが、この要害で守るに易く攻めるに難い地の理がよろしい。およそ四海に事を為す能わざる時に、この山国に立籠《たてこも》って天下の勢《せい》を引受けてみるも一興ではないか」
「左様な要害なればこそ、この国が天領であって、柳沢甲斐守以外には封《ほう》を受けたものが一人も無い。まんいち江戸城に事起った時は、この城がいかなるお役に立つやも計り難し。そうなると我々の勤めもまた重い」
 阿弥陀街道を過ぎると黒野田の宿《しゅく》、ここは笹子峠の東の麓で本陣があります。日脚《ひあし》はまだ高いけれど、明日は笹子峠の難所を越えるのだから、今夜はここへ泊ることになりました。
 この黒野田へ泊ったものは駒井能登守の一行ばかりではありませんでした。本陣へは先触《さきぶれ》があって能登守の一行が占領してしまったけれど、林屋慶蔵というのと、殿村茂助という二軒の宿屋にも少なからぬ客が泊っていました。
 笹子峠を下って来た客もこの黒野田で宿を取る。笹子峠へ上ろうとする旅人もここで泊って翌日立とうとするのだから、自然に足を留める。それに今日は勤番支配の一行が入り込んだから、この小さな山間の小駅が人を以て溢《あふ》れるという景気になってしまいました。
 駒井能登守の一行が本陣へ着いてしまってから、少しばかりたってこの宿へ入り込んで来た二挺の駕籠がありました。駕籠の中は何者だか知れないが、その傍に附いているのが例の米友であることによって大抵は想像されましょう。幸いにして米友は託された人の乗物に追いつくことができたらしい。

         五

 二つの駕籠の宿《しゅく》の休所へ駕籠を下ろして本陣へ掛合いにやると、
「今晩は御支配様のお泊りでございますから」
と言って、余儀なく謝絶《ことわ》られてしまいました。林屋というのと殿村というのと、そのいずれも満員です。満員でないまでもその空間《あきま》というのは到底、この乗物の客を満足させることができないものばかりでしたから、さてここへ来て途方に暮れ、
「弱ったな」
 米友が弱音を吹きました。
「兄さん」
 駕籠の中から垂《たれ》を上げて、米友を呼びかけたのはお絹でありました。
「何だ」
「この本陣に泊っている御支配様というのは、何というお方だか聞いてみて下さい」
「おい、茶店のおじさん、本陣に泊っている御支配というのは何というお方だか知っているかい」
「へえ、それはこのたび、甲府の勤番御支配で御入国になりまする駒井能登守様と申しまするお方でございます」
「御新造《ごしん》さん、お聞きなさる通り駒井能登守というお方だそうでございますよ」
「駒井能登守……その方ならば、わたしが少し知っている」
とお絹が言いました。
「兄さん、おまえ御苦労だが、その駒井の殿様へ掛合いに行ってくれないか」
「俺《おい》らが掛合いに行ったところで……」
 米友はさすがに躊躇《ちゅうちょ》します。米友もそういう掛合いに適任でないことを自覚しているのです。槍を取ってこそ宇治山田の米友だけれども、大名旗本を相手に掛合いをする柄《がら》でないことを知っているから、それで尻込みをしたがると、
「もと四谷の伝馬町にいた神尾主膳からの使でございますと言ってごらん、そうして主人の勤め先の甲府へ参る途中でございますが、女ばかりで泊るところに困っておりますからと、事情《わけ》を話して頼んでごらん。いいかえ、いつものようにポンポン言ってしまってはいけませんよ、丁寧に言って頼まなけりゃいけませんよ。と言ってもお前さんのことだから何を言い出すかわからない。それではわたしが手紙を書きましょう、手紙を書いて駒井様宛にお頼み申してみましょう、お前さんはその手紙だけ持って行って、お返事を伺って来ればよいことにしましょう」
と言ってお絹は駕籠から出て、休茶屋で手紙を書いて封をしました。
 駒井能登守は黒野田の本陣へ着いて休息していると、
「申し上げます、ただいま四谷伝馬町の神尾主膳様のお使と申しまして、この手紙を持参致しました」
「ナニ、神尾の手紙?」
 能登守は、少々意外に思って取次の手からその手紙を受取って見ると女文字でありました。
「甲府詰の主人神尾方へ参る途中の者、女連《おんなづれ》にて宿に困る……はあ、なるほど」
 能登守は早速その手紙を捲き納めながら、
「主人を呼ぶように」
 本陣の主人が急いで出向いて来て、遠くの方から頭を下げました。
「お召しでございましたか」
「当家には我々のほかにも客があるであろうな」
と能登守が尋ねました。
「どう致しまして、御支配様のお着きと承り、ほかのお客はみんなお断わり申し上げて、近所の宿屋へ頼みましてございます、御支配様のお連れのほかには決してどなたもお泊め申しは致しません」
「それは困る、我々が通るのにそんなことをしてもらっては人も迷惑する、自分も迷惑する、泊りたい者には部屋の空《あ》いている限り泊めてやらなくてはならぬ」
「恐れ入りまする」
「今、斯様《かよう》な手紙を持たせてよこした者がある、女連で宿がなくて困却すると書いてある、急いで泊めるようにしてもらいたい」
「恐れ入りました、お言葉に甘えましてそのように取計らいを致します」
 主人は畏《かしこ》まって出て行きました。
 まもなく本陣の主人が迎えに行って、そうしてお絹の一行を案内して来ました。米友もまたお絹一行について案内されて来ました。お絹の一行といっても、それは米友のほかにはお松があるばかりでした。お絹は例の通り町家の奥様のようななりをしていました。お松は御守殿風《ごしゅでんふう》をしていました。
 この二人が駕籠から出た時には、さすがに泊っている人の目を驚かせました。与力同心の面々なども、この思いがけないあい宿《やど》の客の奥へ通るのを目を澄ましていろいろに噂の種が蒔《ま》かれました。あれは能登守殿の親戚の者だろうと言う者もありました。いや御支配の夫人……にしては少し老《ふ》けている――というものもありました。江戸から連れて来たのでは人目もうるさいし、人の口もあるから、わざと道中を別にして、この辺で落ち合う手筈で来たのだろうと考えるものもありました。そんなはずはないというものもありました。能登守はそういう性質《たち》の人ではないと弁護をするものもありました。
 甲州道中で、山を見たり雲助を見たりしていた眼で、二人の女を見たから、目を驚かせることがよけいに大きかったと見えて、暫らくはその噂で持切りでした。そうして結局は、その何者であるかを突留めなければならない義務があるように力瘤《ちからこぶ》を入れたものもありました。けれどもこの水々しい年増と美しい娘とが奥へ通ったあとで、一同は吹き出さなければならないことに出会《でっくわ》してしまいました。
 それは二人につづいて米友がのこのこと入って来たからであります。笠を取るまではそんなに眼につかなかったけれども、笠を取って見ると米友の剃立《そりた》ての頭が、異彩を放っていることがよくわかるのであります。剃立てといえば、青々としてツルツルしたように考えられるけれど、米友のはよく切れない剃刀《かみそり》で削《けず》ったのだから、なかなかテラテラ光るというわけにはゆかないのです。ところどころに削り残された鉋屑《かんなくず》が残っているのであります。けれども当人は、やむを得ないような面《かお》を
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