やがるだろう、これからゆっくりその話の筋を語って聞かせてやるから、落着いて聞いていねえ、それを聞いているうちにはなるほどと思うこともあるだろう、俺が酔興《すいきょう》であんな軽業をさせるんじゃねえと思う節《ふし》もあるだろう……おやおや、役人が大勢来やがったな、あ、百の野郎を引き上げたな。うむ、土地のやつらあ俺を憚《はば》かって手が着けられねえのを、木端《こっぱ》役人め、出しゃばりやがったな、面白《おもしれ》え、どうするか見ていてやれ、百の野郎がなんとぬかすか聞きものだ」

 駒井能登守の一行はその晩、猿橋駅の新井というのへ泊りました。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は一間へ引据えて置いたが、息の絶えるほど弱っているのだから、縄をかけるまでもあるまいと、与力同心は油断をしてそのままで置きました。
「鳥沢の粂という者を呼んで、ともかくもこの男と突き合せて見給え」
 能登守は命令の形式でなく、どうでもよいことのようにこう言って引込んでしまいました。
 与力同心の連中は、ちょうど慈恵学校の生徒が解剖の屍体をあてがわれたような心持で、がんりき[#「がんりき」に傍点]の再調べに着手すると共に、いわゆる鳥沢の粂なる者を引き出そうとしました。
 ところが粂はただいま外出して行方が知れないという返事であったから、更にその行方を厳《きび》しく詮索《せんさく》させることにして、一方にはがんりき[#「がんりき」に傍点]の百を三度目に引き出して調べてみました。いろいろにして泥を吐かせてみようとしたけれども、前と同じように百はいっこう口を開きません。あんな目に遭わされて、相手の罪を訴えないことがだいいち不思議であります。
「なあに、俺《わっし》が悪かったんでございますから、殺されたって仕方がねえんでございますから」
と言ったきり。
「貴様は、たいそう足の早い奴だな」
「へえ、歩くのは達者でございます」
「貴様は片腕が無い、それはどうしたのだ」
「これは怪我をしたから、お医者さんに切ってもらったんでございます」
「貴様は髪結渡世《かみゆいとせい》だと言ったが、その片腕で髪結ができるのか」
「へえ、両腕の揃っていた時分に叩き込んでありましたから、まだそれが片一方の方へいくらか残っているのでございます、けれども碌《ろく》な仕事はできませんからこのごろは職人任せでございます」
「貴様は身延《みのぶ》へ参詣に行くのだと申したがその通りか」
「左様でございます。お祖師様を信心致しますから、それで身延山へ参りてえと思って出かけて参りましたんで」
「身延の道者《どうじゃ》ならば講中《こうじゅう》とか連《つれ》とかいうものがありそうなもの、一人で出て歩くというは怪《け》しからん」
「それが、なんでございます、俺共《わっしども》は何の因果か人並みより足が早いんでございますから、講中の衆やなんかと一緒に歩いていた日にはまだるくてたまりません、それでございますから、どこへ行くにも一人でトットと出て行くんでございます」
「貴様が手形をもっておらんというのがどうしても怪しい、所、名前をもう一度そこで申してみろ」
「先にも申し上げた通り、手形を持っていたんでございますが、あの橋の真中へ吊される時に下へ落っこってしまったんでございます、桂川の水の中へ落してしまったんでございます。所、名前は山下の銀床《ぎんどこ》の銀といって……」
「よし、では鳥沢の粂を呼び出してからまた吟味《ぎんみ》をする、さがれ」
 一通りの調べを受けて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は次の間へ下げられて燈火《あかり》もない真暗なところへ抛《ほう》り込まれてしまいました。
「何だつまらねえ、猿橋を裏から見物させてもらうなんぞは、有難いくらいなものだが、こう身体が弱ってしまったんじゃどうにもやりきれねえ、今までのお調べは通り一遍だが、これから洗い立てられりゃ、どのみち、銀流しが剥《は》げるにきまってる、いつものがんりき[#「がんりき」に傍点]ならここらで逃げ出すんだが、身体の節々《ふしぶし》が痛んで歩けねえ」
と独言《ひとりごと》を言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]はコロリと横になりました。
 夜中になるとがんりき[#「がんりき」に傍点]の耳の傍で囁《ささや》く声がしたから、がんりき[#「がんりき」に傍点]はうとうとしていた眼を覚ました。
「百、しっかりしろ」
「兄貴か」
「野郎、また遣《や》り損《そこ》なったな、いいから俺と一緒に逃げろ」
「兄貴、動けねえ」
「意気地のねえ野郎だ、さあ俺の肩につかまれ」
「俺を荷物にしちゃあ兄貴、お前も動きがつくめえ、打捨《うっちゃ》っといてくれ」
「手前を打捨っておきゃあ、俺の首も危ねえんだ、早くしろ」
「それじゃせっかくだから、お言葉に甘えて御厄介になるべえ」
「人に世話を焼かせずに、自分から動き出す気にならなくちゃいけねえ」
 こうしてがんりき[#「がんりき」に傍点]を助けに来た奴と、助け出されて行くがんりき[#「がんりき」に傍点]は窓から逃げて行きました。窓を上手に切って、身体の自由になるようにして、細引で縄梯子《なわばしご》がかけてあったのを上手に脱け出したから、旅に疲れた与力同心の面々も更に気がつきませんでした。
「兄貴、よく来てくれた」
「ほんとうに世話の焼けた野郎とっちゃあ[#「とっちゃあ」に傍点]」
「どうも済まねえ」
「ははあ、今度という今度はいくらか身に沁《し》みたと見えて弱い音《ね》を吹き出したな」
「どうにもこうにも身体が痛んでやりきれねえ、そりゃそうと、兄貴、俺がここへ捕まってることがどうしてわかったんだい」
「初狩《はつかり》まで行ったところが、通りかかる馬方の口から変なことを聞いたもんだから、それで、もしやと引返してみたんだ」
「そうか。兄貴の前だが、猿橋を裏から見せられたのは今度が初めてよ」
「鳥沢の粂の野郎がそうしたんだというじゃねえか。野郎あんまりふざけたことをすると思ったから、わざわざ引返して来て見ると、粂の野郎もいなけりゃあ、手前の姿も橋のまわりには見えねえから聞いてみると、これこれのわけで、役人につかまって吟味最中ということだから、暫らく三島明神の裏に隠れて夜の更けるのを待って、それから忍んで行ってみたんだ」
「おかげさまで命拾いをしたようなもんだが、なにぶんこんなに身体が弱っていた日にゃ所詮《しょせん》遠道は利かねえ、あの役人というのが、勤番支配なんだから、一度はこうして助けてもらっても、あいつらに睨《にら》まれた上はどうもこの道中は危ねえな」
「なるほど、この様子じゃあ、どこかで二三日保養をしなくちゃあトテモ物にはならねえようだ。と言って、勤番支配を向うに廻したんじゃあ、滅多な家へ駈込むわけにもいかず……そうだ、いいことがある、これから粂の野郎のところへ押しかけて行こう、あの野郎、この界隈《かいわい》の親分面をして納まっているのが癪《しゃく》だ、これから二人で押しかけて行って、手前を預けて来ることにしようじゃねえか」
「粂の親分のところへ出直しに行くんだな。兄貴が一緒に行ってくれたら向うもマンザラな挨拶はすめえから、それじゃ、そういうことにしてもらいましょう。それから兄貴、お前が俺を出し抜いて甲府へ立たせたあの御新造と娘は、ありゃあ今どこにいる」
「ははは、まだそんなことを言ってるのか。ありゃ今晩|下初狩《しもはつかり》へ泊っているから明日は笹子峠へかかるんだ、あの峠が危ねえと思ったから、俺が附いて行くつもりであったが、手前がこんな様子じゃあ二三日は安心ができる、二三日安心している間には甲府の城下へ一足お先に着いているから、甲府まで送り込んでしまえば、俺の肩が休まるんだ。百、お気の毒だけれど、とうとう物にならねえらしいぜ」
「ふふん、まだそう見縊《みくび》ったものでもねえ」

         四

 与力同心の面々はその翌朝になって仰天しました。
 逃げられてしまった。たかを括《くく》っていたために逃げられてしまった。逃げられたのよりも逃げたのが不思議であると思いました。あんな死にかけた身体で、どうして逃げ出したか。
 旅の一興で練習問題として扱われた代物《しろもの》ではあるけれども、逃げられたのは不面目である、役人の名折れにもなるから黙っているわけにはいかないとあって、与力同心の面々は駒井能登守にこのことを申し出でて恐縮すると、
「このたびの甲州入りは、なにもあの者共を追い廻すために来たのではない、歩いている間に打突《ぶっつ》かって来たら、捉《つか》まえてみるがよし、逃げて行ったら逃がしておくがよし」
 そこで、今までのひっかかりはいっさい断ち切ってしまって、翌朝駒井能登守の一行は猿橋駅を立ち出でて、またも悠々として甲州道中をつづけました。
 猿橋から殿上《とのうえ》、横尾、駒橋《こまばし》を通って大月へ出た時分に、
「この大きな一枚岩のような山、これが武田の勇将|小山田備中守《おやまだびっちゅうのかみ》が居城|岩殿山《いわとのさん》、要害としても面白いが景色としても面白い。備中守|信茂《のぶしげ》はたしかこの城で二度の勇気を現わしているようだ。一度は村上義清の手から逆襲された時、五十余人でこれを守って守り通してその間に信玄の援兵が来た。二度は武田の末路の時、織田の兵をここで引受けて備中守が斬死《きりじに》した。武田家にはさすがに勇士がある、天険がある、この天険あり勇士あってついに亡びたのは天運ぜひもなし」
「いかにも、武田家の武略には東照権現も心から敬服しておられた。徳川家の世になって甲州の仕法《しほう》は、いっさい信玄の為し置かれたままを襲用して差支えなしということであったが、ただ一つ、甲州の軍勢が用いた毒矢だけは使用相成らずと東照権現のお声がかりであった。信玄は毒矢を平気で用いておられたが東照公はそれをお嫌いなされた、そこに両将の器量の相違がある」
「信玄公は、智略において第一、惜しいことに人情に乏しい、民を治《おさ》めることは上手であったにかかわらず、その徳が二代に及ばず、その術が甲斐信濃以上に出づることができなかった。越後の上杉謙信はそれに比べると勇気第一、それとても北国を切り従えたのみで上洛《じょうらく》の望みは遂げず、次に織田右大臣、よく大業を為し得たけれど、その身は非業《ひごう》の死。豊臣太閤に至って前代未聞《ぜんだいみもん》の盛事。それもはや浪花《なにわ》の夢と消えて、世は徳川に至りて流れも長く治まる。剛強必ず死して仁義《じんぎ》王たりという本文を目《ま》のあたりに見るようじゃ」
 例によって官用だか名所見物だかわからないような調子で歩いて行きました。
 駒井能登守のつれて来た与力同心は、大抵若い連中でありました。なかに老巧者もいないことはないが、話の中心になるのは若い連中であったから、ややもすれば批評が出たり、議論が出たりします。
「何といっても信玄と謙信の食い合いが戦国時代ではいちばん力の入った相撲だ。すべて相撲は段違いでは面白くないし、そうかといって同じ型の相撲が力ずくで揉《も》み合うのも面白くない、そこへゆくと謙信の勇に信玄の智、義を重んずる謙信と、老獪《ろうかい》な信玄と、型が違って互角なのが虚々実々と火花を散らして戦うところは古今の観物《みもの》だ。まあ、あんな相撲はおそらく日本の戦争に二つとはあるまいな、戦国の時代ではまさにあれが両大関だ」
「それはそうに違いない、川中島の掛引《かけひき》は軍記で読んでも人を唸《うな》らせる、実際に見ておいたら、どのくらい学問になったか知れぬ。我々は不幸にしてその時代に遭《あ》わなかったことを憾《うら》むくらいのものだが、しかしなお遺憾なことは、あの両大関を空しく甲斐と越後の片隅に取組ましてしまって、本場所へ出して後から出た横綱と噛み合わせてみなかったことが残念だな」
「それは誰でもそう思う、信玄と謙信が、もう少し長生《ながいき》をしていたら、トテモ信長公が天下を取るわけにはゆかぬ、信長公が世に出なければ太閤というものも世に出るわけに
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