小屋から怪しげな剃刀《かみそり》だの鏡台だのが担ぎ出されます。
 米友はつまらない面《かお》をしています。俺を坊主にするなどとは以てのほかだというような面をしていたが、トテモ坊主になるものならおとなしく坊主になってやろうというような、得心をしたようにも見られます。
 物好きな宿役人が米友の後ろへ廻って剃刀を取ったが、その剃刀があまり切れないせいか、山葵卸《わさびおろし》で擦《こす》るようでありました。痛さを怺《こら》えてじっとして剃らせている米友、その面もおかしいが、いよいよ剃り上った坊主もかなりおかしいと見えて、一同でやんやと囃《はや》して笑ったけれど米友は笑わなかった。
「これでいいのか」
 坊主頭を振ってみて、それから例の風呂敷包を首根っ子へ結《ゆわ》いつけて、笠を被《かぶ》ると、
「俺らは急ぎなんだ」
 こう言って横っ飛びに川の中へ飛び込んでしまいました。その挙動が、あんまり無邪気で軽快でしたから、人足どもも笑って、米友がひとりでズンズン川を越して行くのを敢《あえ》て止めませんでした。
 この一場の小喜劇がこれで済んで、川彼方《かわむこう》を跛足を引き引き駈けて行く米友の形をさんざんに笑いながら、ようやく能登守一行の川渡りが済みました。しばらく遠慮をしていた両岸の旅客もようやく渡ることができました。
「いや、旅をするとさまざまの面白いものを見るわい、駒木野の関所で見た女、次に小仏を下りて見かけた足の早い男、今またあの奇妙な小男、さてこの次には何を見るか。それにしてもあの小男が槍を使うのは至極の精妙、見たところ、武家奉公をしている様子もなし、出し抜かれた、出し抜かれたと言って駈けて行くが、あの調子ではまた何かにぶつかって大事《おおごと》を惹《ひ》き起さねばよいが」
 駒井能登守はこういって米友の身の上を心配しながら、やはり悠々として甲州入りの旅をつづけましたが、ほどなく鳥沢の宿へ着いてここの本陣で一休み。

         三

 鳥沢で休んでいるうちに、またさまざまの雑談がありました。この附近で香魚《あゆ》が捕れてその味が至極よろしいこと、また山葵《わさび》も取れること、矢坪坂《やつぼざか》の古戦場というのがあること、太鼓岩、蚕岩《かいこいわ》、白糸の滝、長滝などの名所があるということ、それから矢坪坂の座頭転《ざとうころ》がしの難所のことになって、
「房州の小湊《こみなと》へ行く道にお仙転《せんころ》がしというのがあるが、ここには座頭転がしというのがある、座頭転がしとはなにか由緒《ゆいしょ》がありそうな名じゃ、どういうわけで、そんな名前がついたのだ」
 本陣の主人が答えて、
「ただ山の中腹に開《あ》いてありまする路が、羊の腸《はらわた》みたようにうねっておりますから、煙草の火の借り合いができるほどのところへ行くにも廻り廻って行かねばなりません。或る時、二人の座頭が、この道を通りまする時、おたがいに言葉をかけ合って参りましたが、途中で後ろの者が『オーイ』と申します、前のものが『オーイ』と返事をします、近いところに聞えたものですから、真直ぐに行くと谷へ落ちて死んでしまいました。それで座頭転がしというのだそうでございます」
「この街道は道が嶮《けわ》しいばかりでなく、人気などもなかなか荒いようじゃ」
「人気はなかなか荒いそうでございます、どうも郡内者といって、旅の者が怖れておいでなさるそうでございますが、住んでいますれば、やっぱり同じ人間でございますから、そんなに荒っぽいとも存じません、頼むとあとへ引かないといったような片意地のところもございまして、附合い様一つでございます」
「この鳥沢に粂《くめ》という者があるか。鳥沢の粂といって、この界隈《かいわい》に知られた男があるそうな」
「へえ、鳥沢の粂、そんな者があるにはあるんでございますが、お話を申し上げるような人体《にんてい》ではございません」
と言って、主人は鳥沢の粂のことをあんまり話したがらない。風景があったり名物が出たりすることは多少にも自慢にもなるけれど、あんな人間の存在することはあまり名誉とも思わないらしくて、粂のことは問われても語らずに、
「なんしてもこの通りの山の中でございますから、景色と申しても名物と申しても知れたものでございますが、そのうちでも甲斐絹《かいき》と猿橋《さるはし》、これがまあ、かなり日本中へ知れ渡ったものでござりまする」
「そうだ、猿橋と甲斐絹の名は知らぬ者はあるまい、その猿橋ももう近くなったはず」
「これから、ほんの僅かでございます、そんなに大きな橋ではございませんが、組立てが変っておりますから、日本の三奇橋の一つだなんぞと言われておりまする。猿橋から大月、大月には岩殿山《いわとのさん》の城あとがございまして、富士へおいでになるにはそこからわかれる道がございます。それから初狩《はつかり》、黒野田を通って笹子峠」
 本陣の主人は一通りの道案内を申しました。一行のうちにはここをしばしば通ったものもあるのだから、そんなに委《くわ》しく言う必要はないと思って手短かに案内をしたが、大部分は初めての甲州入りだから、珍らしがって名所の話をします。ことに日本三奇橋の一つと称せらるる猿橋に近くなったということが好奇心をそそって、
「いったい、その日本の三奇橋というのはドレとドレだ」
「周防《すおう》の錦帯橋《きんたいばし》、木曾の桟橋《かけはし》、それにこの甲斐の猿橋」
 一行のうちの物識《ものし》りが答えます。やがてこの本陣を出て右の猿橋へかかった時分に、そこで一行は、橋以外にまた奇体なものにぶっつかることになりました。
 鳥沢で休んで駒井能登守の一行がまたも悠々と甲州街道を上って行くと、ほどなく猿橋まで来かかりました。
 猿橋は有名な橋。その橋のところへ来ると、往来の人が怖々《こわごわ》と橋の左側の方ばかりを小さくなって駈けるようにして通るから、与力同心の面々が不思議に思って、
「ナゼ真中を通らぬ、橋がこわれているならナゼ普請《ふしん》をせぬ」
と言って咎《とが》めると、通りかかった男が、
「あ、あの通りでございます」
 青くなって指さしをしたから、その指さしをしたところを見ると、欄干に細引が結えつけてあって、それから釣忍《つりしのぶ》を吊《つる》したように何か吊してあるようです。何が吊してあるのかとよく見定めると人間が一人、四ツ手に絡《から》んで高さ十七間の猿橋の真中から吊り下げてありました。
「こりゃ怪《け》しからん、誰がこんなことをした」
「鳥沢の親分がこういうことをやりました」
「鳥沢の親分とは何者だ」
「鳥沢の粂《くめ》という、このあたりに聞えた親分でございます」
「何者であろうとも、斯様《かよう》な惨酷《さんこく》なことをするのを見逃しておくのは何事じゃ、ナゼ助けてやらぬ」
「粂が申します、これを解いてやった奴があれば生かしちゃ置かねえとこう申しますから、正直な土地の人は慄《ふる》え上ってまだ手をつける人はございません」
「憎い奴じゃ、上《かみ》を怖れぬ仕方、早く引き上げてやれ」
 与力同心は仲間小者と力を合せて、この細引にかけて吊してあった人間を引き上げてやりました。
 引き上げてみると、もう真蒼《まっさお》になって息が絶えている模様でしたから、薬をくれたり水をやったりして介抱すると幸いに息を吹き返しました。
「これ、気を確かに持て」
「有難うございます」
「其方《そのほう》は何者だ、どうして斯様な目に遭ったのだ」
「どうも相済みません、なあに、ちっとばかりこっちの悪戯《いたずら》が過ぎたから、それでこんな目に遭ったんでございます、打捨《うっちゃ》っておいて下さいまし」
「斯様な惨酷なことを致すものを打捨ててはおけぬ、聞けば鳥沢の粂とやらいう悪者の仕業《しわざ》じゃそうな。うむ、その粂という者はどこにいる」
「なあに、鳥沢の親分がやったんじゃあございません、俺《わっし》が慰みにやってみたんでございます」
「さてさて、貴様はわからぬ奴じゃ、包まず申せ、貴様のために仇《かたき》を取ってやる」
「なあに、仇なんぞは取っていただかなくってもよろしうございます、おかげさまで地獄から呼び戻されたのが何よりで、それでもう充分でございます」
「貴様はその粂とやらいう悪漢を怖れて包み隠すと見えるな、我々が聞いた以上はいかなる悪漢なりとても、後の祟《たた》りは少しも心配はないのじゃ」
「どう致しまして、たとえ粂であろうとも、鬼であろうとも、後の祟りを怖がってそれで包み隠すというようなわけじゃございません、どうか打捨ってお置きなすって下さいまし」
「貴様が白状しなければ別に調べる道もある、ともかく我々と一緒に本陣まで同道せい」
「どうか、このままお免《ゆる》しなすって下さいまし、歩けません」
 こんな酷《ひど》い目に遭わされながら何とも訴えないのは、そこに何か仔細がなければならぬと思って与力同心の面々は、この男を引き立てようとした時に気がついたのは、この男に片腕のないことでした。
 これより先、猿橋の西の詰《つめ》の茶屋の二階で郡内織の褞袍《どてら》を着て、長脇差を傍に引きつけて酒を飲んでいた一人の男がありました。年は五十に近いのだが、でっぷりと太って、額際《ひたいぎわ》に向う傷があって人相が険《けわ》しい。これは前にしばしば名前の出た鳥沢の粂という男であります。
 粂は二階から障子をあけ払って猿橋を一目にながめながら、
「どうだい、野郎をあんなにしてやった、いい心持だろう、あんなのを眺めて酒を飲むとよっぽどうめえ」
 粂は猿橋の真中から、亀の子のようにがんりき[#「がんりき」に傍点]の身体を吊下げて、それを見ながら酒を飲んでいるのでありました。
「親分、どうか許して上げてください、あの人も悪いことがあるんでしょうけれど、あんなにまでなさらなくってもよろしうございます、どうか助けてやって下さい」
「いいや、いけねえ、あの野郎には、あれでもまだ身に沁《し》みたというところまでは行かねえんだ、もうちっと窮命《きゅうめい》さしてやる。お前もよく眼をあいて見ておきねえ、なんで下を向くんだ、よ、高さは僅か三十三|尋《ひろ》とちっとばかり、下はたんとも深くねえが、やっぱり三十と三尋、甲州|名代《なだい》の猿橋の真中にブラ下って桂川《かつらがわ》見物をさせてもらうなんぞは野郎も冥利《みょうり》だ。お前も可愛がったり可愛がられたりした野郎だ、よく見ておきねえ、なにもそんな処女《きむすめ》みたように恥かしがって下を向くことはねえじゃねえか」
 鳥沢の粂の傍にいる女、それは女軽業の頭領のお角でありました。
「親分さん、どうか助けて上げてくださいよう、死んでしまいます、悪い人は悪い人でも、あれではあんまり酷うございますから、早く解いてやって下さいよう」
「いいや、いけねえ。お前もずいぶん、女子供を買って来て危ねえ芸当をさせて銭をもうける職業《しょうべい》に似合わねえ、あのくらいの仕置《しおき》が見ていられねえでどうする。野郎に軽業をさせて今日はお前と俺がお客になって見物するんだ、この桟敷《さじき》は買切りだから誰に遠慮もいらねえ、首尾よく野郎の芸当が勤まれば、二人の手から祝儀をくれてやらあ」
「親分、どうしても解いて上げることができなければ、いっそ殺してしまって下さい、あんな目に会わされているより、一思いに殺されてしまった方がよいでしょうから。わたしも見ていられないから、早く殺してやって下さい」
「殺しちまっちゃあ、身も蓋《ふた》もねえや、ああいう野郎にはいろいろの芸当をさせてみて、死にかかったらまた水を吹っかけて生き返らして、またやらせるんだ。まあ、お角、一杯飲みな。俺があの野郎をあんな目に遭わせるから、俺は鬼か魔物みたようにお前の目に見えるか知れねえが、ずいぶんああしてやっていい筋があるんだ。あの野郎の生立《おいたち》から国を出るまでのことを残らず知ってるのが俺だ、俺にああされてあの野郎には文句が言えねえ筋があるんだ、俺にああされたから野郎は本望ぐれえに心得てい
前へ 次へ
全13ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング