をしているうちに出し抜かれちゃったんだ、こうしちゃいられねえ」
「馬鹿野郎」
「何だい、何をしやがる」
「よく眼をあいて見やあがれ、川の向うもこっちも通行どめなんだ、みんなああして御遠慮をしているのがわからねえか」
「遠慮なんぞをしちゃあいられねえ、人から頼まれて乗物の目付《めつけ》をして来たんだ、それが先へ出ちまったんだ、俺《おい》らはそのつもりじゃなかったんだ、まだ出かけねえと言うから、それで安心して待ってたんだ、悪い奴の計略にひっかかったんだ」
「何を言ってやがるんだい、この馬鹿野郎、引込んでいやがれ」
 人足は拳《こぶし》を固めて米友を殴《なぐ》りつけてしまおうとすると、米友はその手の下を潜って飛び出し、
「お前たちの手は借りねえんだ、一人で越すからいいよ」
 尻を引絡《ひっから》げて川へ入り込もうとするから、人足どもがバラバラと駈けて来て米友を囲んでしまい、その手を持ってギュウギュウ引き立て、
「方図《ほうず》のねえ馬鹿野郎だ」
 ポカポカと二つ三つ食《くら》わせてしまいました。
「おやおや、打《ぶ》ったね」
「まだあんなことを言ってやがる、叩きのめして簀巻《すまき》にしてやれ」
「ナゼ打つんだい、ええ、ナゼ俺らを打ったんだ」
「この野郎、ちびのくせに口の減《へ》らねえ野郎だ」
「まあ、おじさん待ってくれ、打つんならお打ち、打たれてもいいからその代り、おじさんここを通しておくれ、ね」
 米友は、それでも人足と争うことの不利なるを覚《さと》ってか、いっぱしの知恵を出して妥協を試みようとしたが、どうしてこの場合、川越し人足が米友の口前ぐらいで承知するものではありません。
「面倒くさいから叩きのめしてしまえ」
 争わずしている米友を、またも拳を上げてガンと食らわせました。
「あ、痛え!」
 米友も、さすがに面《かお》をしかめて痛みを怺《こら》えねばならぬくらいに手強く打たれて、思わず片手で頭を押えた時に、続けざまにポカポカと拳の雨が来ましたから、米友の癇癪《かんしゃく》が一時に破裂しました。
「もう、勘弁ができねえ、こいつら甲州街道の川越しの人足ども、あんまり人をばかにしやがるない、ここは手前たちの川じゃあるめえ、甲州街道の鶴川だろう、手前たちがこの川を持ってるわけじゃあるめえ、天下様の往来だい、俺らが通ってナゼ悪いんだ、渡し賃が要《い》るならくれてやらあ、手前たちは渡し賃を貰って人を渡しさえすりゃいいんだろう、通すの通さねえの、安宅《あたか》の関の弁慶みたいなごたいそうなことを言うない、富樫《とがし》にしちゃあ出来過ぎてらあ、第一、手前たちは富樫という面《つら》じゃねえ」
 さあいけない、米友はまた啖呵《たんか》を切ってしまった。
 米友流の啖呵を切って開き直ると、手に持っていた杖を眼にもとまらない迅さで取り直して、いま自分を撲《なぐ》った人足の眼と鼻の間に一刺《いっし》を加えました。
「あッ!」
 その人足はひっくり返る、あとの人足は殺気が立つ。人足を一人突き倒して、しばらく彼等を呆気《あっけ》に取らした米友は、二三間、河原の向うへツツと飛び越して岩の上へ跳《は》ねあがり、
「俺《おい》らは伊勢の国から東海道を旅をして江戸の水を呑んで来た宇治山田の米友だ。東海道には天竜川だの大井川だのという大きな川があるんだ、こんな山ん中のちっぽけな川とは違って、水もモットうんとあらあ、そこには川越しの人足も幾百人といるけれども、手前たちのようなわけのわからねえ人足は一人もいなかったんだ。おじさん、俺らはこの通り足が悪いんだから、大事にして通しておくれと頼めば、ウン兄《あに》い、気をつけて歩きねえ、転ぶとお前は背が低いから、浅いところでもブクブクウをするよなんて言やがるから、ばかにするない、背は低くっても泳ぎが出来るんだいと威張ってやると、あははと笑って通すんだ。手前たちは山ん中の猿だから世間を知らねえや、だから教えてやるんだ、東海道の川越し人足はそうしたものなんだ、同じ人足でも人足ぶりが違わあ、第一、面《つら》からして違ってらあ。俺らが急ぎだから通してくれと頼むのを、事情《わけ》も聞かねえで、無暗《むやみ》に撲《ぶ》ちやがる。撲たれていいものなら撲たしてやらあ、こっちに悪い尻があるんなら、いくらでも撲たれてやらあ、ここまで来て撲ってみやあがれ。米友が持っておいでなさるこの杖は、杖と見えても杖じゃねえんだ、まかり間違ったら槍に化けるように仕掛がしてあるとはお釈迦様《しゃかさま》でも気がつくめえ。やい山猿人足、手前たちは世間を見たことがねえから、この米友がどのくらい槍が遣《つか》えるんだかその見当がつくめえ。山猿と言われたのが口惜しけりゃここまで来てみやがれ、米友の槍が怖いと思ったら、早く川を通せろやい」
 こう言いながら米友は、持っていた杖を片手に取ってブンブンと振り廻し、猿のような面《かお》をして白い歯を剥《む》いて罵《ののし》ると、たださえ気の荒い郡内の川越し人足が、こんなことを言われて納まるはずがありません。
「ふざけた野郎だ、叩き殺せ」
 この騒ぎで、駒井能登守の連台を担ぎかけた人足も、与力同心の股倉《またぐら》へ頭を突っ込んだ人足も、みんなそれをやめてしまって、米友の方へバラバラと飛んで行きました。宿役人は青くなってその騒ぎを抑《おさ》えにかかります。

 意外の騒動が起ったので、駒井能登守はやむなくその騒ぎを見ていました。与力同心の連中もそれを見ていました。いずれも人足どもの騒ぎ、宿役の連中が取鎮めるであろうから自分たちが手を下すまでもあるまい。それで騒ぎの済むのを待っているうちにも、岩の上へ跳《おど》り上った米友の無遠慮露骨な罵倒を聞いてハラハラしました。
 人足どもも無暗《むやみ》に撲ることは乱暴だが、川越し人足である、これで通ったものを、東海道の人足とは人足ぶりが違うとか、面《つら》まで違うとか、山猿がどうしたとか、言わんでもよい悪口を言っているのはずいぶん向う見ずの無茶な奴だと思って、その鎮まるのを待っているが鎮まりません。
「矢でも鉄砲でも持って来やがれ」
 岩の上に立った米友を下から渦《うず》を巻いて押し寄せた川越し人足、なにほどのこともない、取捉《とっつか》まえて一捻《ひとひね》りと素手《すで》で登って来るのを曳《えい》と突く。突かれて筋斗《もんどり》打って河原へ落ちる。つづいて、
「この野郎」
 手捕《てどり》にしようとして我れ勝ちにのぼって来るのを上で米友が手練《しゅれん》の槍。と言ってもまだ穂はつけてないから棒も同じこと。
 これだから米友は困りものです。くれぐれもその短気を起すことを戒《いまし》められているにかかわらず、短気を起してしまいます。無暗に喧嘩を買ってしまいます。槍が出来るという自信があるために人を怖れないし、それに、どうしても曲ったことが嫌いだから、ポンポン理窟を言ってしまいます。
 不幸にしてただ脳味噌に少しく足りないところがあるらしく、それがために時の場合と相手の利害を見ることができません。役人であろうとも雲助であろうとも更に頓着がないから困りものです。お君でも傍にいてなだめたり諫《いさ》めたりするから江戸へ来て以来はあんまり大きな騒ぎを持ち上げませんでした。大きな騒ぎを持ち上げないこともない、見世物小屋の失敗《しくじり》などはかなり大きな失敗でしたけれども、それがために古市《ふるいち》における場合のように、槍を振り廻すことのなかったのはまだしもの幸いでしたが、今はとうとう本式の喧嘩を持ち上げてしまいました。しかもその相手が最も悪い、雲助のなかでも最も性質《たち》の悪い郡内の雲助ですから、米友も実に飛んでもない相手を引受けたものです。市川|海老蔵《えびぞう》は甲府へ乗り込む時にここの川越しに百両の金を強請《ゆす》られたために怖毛《おぞけ》を振《ふる》って、後にこの本街道を避けて大菩薩越えをしたということ。性質《たち》の悪いことにおいて甲州街道の雲助は定評がある。その雲助を、あんなことを言って罵ってしまったから、その怒り出すことは火を見るようなものです。何のためか、ここの人足は長い竹竿を横にして、それに十数人の人足がつかまって乗物の先に立って川を渡す、今、その竹の竿を担ぎ出して米友を引払ってしまおうとしました。
 駒井能登守の一行は不意の出来事に驚いて暫らく立って見ていると、岩の上に立って杖を遣《つか》う米友の敏捷《びんしょう》なこと。
 蟻《あり》のように上りかける人足を片端《かたはし》から突いて突き落す。寄手がいよいよ多ければ、いよいよ突き落す。裸体《はだか》の雲助が岩の上からバタバタと突き落されたところは、ちょうど千破剣《ちはや》の城をせめた北条勢が、楠《くすのき》のために切岸《きりぎし》の上から追い落されるような有様ですから、目をすまして見物していると、
「こいつら、俺らの懐中《ふところ》にまだ槍の穂が蔵《しま》ってあることを知らねえか、今こうして手前たちを突き落しているのはこの棒だけれど、いよいよという場合には穂をつけて、ほんとうに突き殺すからそう思え、今は怪我をしねえようにそっと突いていてやるんだ、穂をつけてから、米友がほんとうに荒《あば》れ出したら、いちいち突き殺して、この河原を裸虫で埋めるようなことになるからそう思え。何だい、そんな長い竿なんぞを持って来やがって、俺らを叩き落そうと言うんだな。よしよし、そんならほんとうに棒の天辺《てっぺん》へ刃物をくっつけるぞ、さあこれだ、これをちゃあんと棒の先へつけて槍に組み立てるように仕掛が出来てるんだ、これで突いたら命はねえんだからなそう思え、面《つら》の真中でも咽喉仏《のどぼとけ》でもお望み通りのところを突いてやる、ちっとやそっと危ねえんじゃねえや」
 米友が懐中から取り出した笹穂《ささほ》は先生自身の工夫で、忽ちそれを杖の先に取りつけて、その穂を左の掌《てのひら》で握って下へさげ、石突《いしづき》をグッと上げて逆七三の構え、ちょうど岩の上に立って水を潜《くぐ》る魚を覘《ねら》うような姿勢を取ると、足を払いに来た竹の竿、それを身を跳らして避けると、いま上りかけた人足の面《つら》の真中から血汐《ちしお》が溢れ出して、
「呀《あ》ッ」
 仰向けに河原へ落ちる。
「野郎、仲間《なかま》を突きやがったな、さあ承知ができねえ」
 血を見ると人足が狂う。
 事態、いよいよ危険と見たから、駒井能登守の手にいた与力同心が出動せねばならなくなりました。

 与力同心の出動によってこの騒ぎは鎮《しず》まりました。しかし納まらないのは雲助ども、あんな悪口を言われ、且つ面《かお》の真中を突かれた負傷者をさえ一人出している。五分五分の仲裁では納まりようはずがないから与力同心は、両方を押えた後に米友を番小屋の方へつれて来ました。さてその後の裁判がふるっています。
 米友に槍で突かれた人足は一人。それは面を突き破られただけで、かなり重い傷には違いないけれど生命に別条はない。だからそれを償《つぐな》うために米友を片輪にしたら承知ができるだろう。しかし米友は跛足であってもう片輪になっている。この上に片輪にしてしまっては命を縮めることになるから、その代りに頭を坊主にして、それで許してやれという駒井能登守の裁判でした。
 能登守も笑いながら裁判しました。与力同心も笑いながら、
「それは御名案、どうじゃ川越しども、それで許してやれ、許してやれ、相手はこの通り正直者だから」
 与力同心がこう言うと、ハラハラしていた宿役人どももまた笑い出して、
「御支配様のお裁判だ、この男を坊主にして笑ってやれ、若い衆、それで我慢してくれ、我慢してくれ」
 八方からこう言われて、さすがの川越し人足も納まりかけました。
「あはははは、この野郎を坊主にしたらドンナ坊主が出来上るだ、見たところ餓鬼《がき》のようでもあるし、ばかに年寄じみたところもあるし、なんだかえたいのわからねえ野郎とっちゃあ[#「とっちゃあ」に傍点]、いいから坊主にして笑ってやれ」
「坊主、坊主」
 早くも番
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