まを襲用して差支えなしということであったが、ただ一つ、甲州の軍勢が用いた毒矢だけは使用相成らずと東照権現のお声がかりであった。信玄は毒矢を平気で用いておられたが東照公はそれをお嫌いなされた、そこに両将の器量の相違がある」
「信玄公は、智略において第一、惜しいことに人情に乏しい、民を治《おさ》めることは上手であったにかかわらず、その徳が二代に及ばず、その術が甲斐信濃以上に出づることができなかった。越後の上杉謙信はそれに比べると勇気第一、それとても北国を切り従えたのみで上洛《じょうらく》の望みは遂げず、次に織田右大臣、よく大業を為し得たけれど、その身は非業《ひごう》の死。豊臣太閤に至って前代未聞《ぜんだいみもん》の盛事。それもはや浪花《なにわ》の夢と消えて、世は徳川に至りて流れも長く治まる。剛強必ず死して仁義《じんぎ》王たりという本文を目《ま》のあたりに見るようじゃ」
 例によって官用だか名所見物だかわからないような調子で歩いて行きました。
 駒井能登守のつれて来た与力同心は、大抵若い連中でありました。なかに老巧者もいないことはないが、話の中心になるのは若い連中であったから、ややもすれば批
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