面目がござりませぬ」
「向うの岸とこっちでは無理もないことじゃ、まして人間並みを外《はず》れた足の迅い奴、逃げるのがあたりまえで、逃がした方に罪はない」
「それと知ったら声をかけずに、何か手段があったろうものを」
「これから先のこと、甲府へ入るまでにきっと、あの者が再び現われることがあるに違いない、その時は油断せぬように」
「心得ました」
与力同心の面々がみな多少の好奇心にそそられました。もとよりこれらの人々がワザワザ手配をして騒ぎ立てるほどの代物《しろもの》ではないが、道中の腕比《うでくら》べというようなことになってみると、多少の張合いが出て来るものでありました。それ故、無駄なことと思ったものまでが、休み茶屋や、泊り泊りにも用心をしてみる気になりました。しかしながら別段に変ったこともなく与瀬《よせ》の宿《しゅく》へ入って、これこれの者の姿を見かけなかったかと尋ねてみても、誰もそんな者を見かけたという者はなく、
「ただ、さきほど峠道で若いおかみさんが悪者に苛《いじ》められているところを、鳥沢の親分が通りかかって連れておいでになったばかりでございます」
と土地の人が言います。
「若いお
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