お絹の動いたことにはまだ気がつかなかったけれど、上下で起るその人の声は早くも耳に入ると、必死の力でむっくり起き直って見ると、提灯《ちょうちん》の光が、いくつもいくつも黒野田の方から、谷川と崖路を伝うてこちらを差して来るのがわかります。
上の方、矢立の杉のあたりからもまた火影《ほかげ》がチラチラ、してみると自分はもう取捲かれているのだ。がんりき[#「がんりき」に傍点]は遽《にわか》に立ち上ってよろめきながら、
「トテモ逃げられなけりゃ、ここで心中だ。生きて峠が越えられねえのだから、死んで三途《さんず》の川を渡るのも、乙《おつ》な因縁《いんねん》だろうじゃねえか。道行の相手に、まあこのくらいの女なら俺の身上《しんじょう》では大した不足もあるめえ。猿橋の裏を中ぶらりんで見せられたり、笹子峠から一足飛びに地獄の道行なんぞは、あんまり洒落《しゃれ》すぎて感心もしねえのだが、どうもこうなっちゃあ仕方がねえ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]がお絹の傍へ寄った時、
「な、何をするの」
お絹は生きていました。自分の咽喉へかけようとしたがんりき[#「がんりき」に傍点]の手を、夢中で振り払うと、
「おや」
がんりき[#「がんりき」に傍点]も驚いたが、その途端にフラフラとまたしても岩を辷《すべ》ると、あわててその片手にお絹の着物の裾を掴む。裾を掴んだけれども、辷る勢いが強くてお絹もろともに釣瓶落《つるべおと》しに谷底へ落っこちます。
九
その翌朝、駒井能登守の一行は例によってこの本陣を出立しました。お絹、お松、米友の一行は、それに従って行く様子がありません。
昨夜、七兵衛はお松にことわって誰にも言うなと言ったにかかわらず、お松はそれを黙っているわけにはゆかないから、与力同心を相手に気焔を揚げていた米友を呼んで話しました。それから騒ぎが大きくなって、居合わすもの総出の勢で、山狩りをして峠の方へ狩り立てて行くうちに、尋ねるお絹が半死半生の体《てい》で谷間から這《は》い出して来ました。
ともかくも、お絹が逃げて来たことによって、一同も安心して宿へ引取ったが、お絹は一切のことを語りません。それ故に誰もその事情を知るものがなく、或いは山の天狗に浚《さら》われたのではないかと思っています。
無事で逃げて帰ることのできたお絹は、実は能登守の一行について行きたかったのだけれども、身体が弱っているから、心ならずもここに留まることになりました。
かくて駒井能登守の一行が黒野田を出ると、幾カ所の橋を渡り、追分を通って、いよいよ笹子峠へかかりました。
「これが笹子峠の矢立の杉」
中の茶屋を通って、矢立の杉の下で一行が立ち止まってその杉を見上げました。
「ははあ、矢立の杉というのはこれか」
と言って杉のまわりをまわり歩いている連中が、面白半分に手を合せてその杉の大きさを抱えてみました。
「ちょうど七抱《ななかか》え半ある」
「昔の歌に、武夫《もののふ》の手向《たむけ》の征箭《そや》も跡ふりて神寂《かみさ》び立てる杉の一もと、とあるのはこの杉だ」
「ナニ、なんと言われる、その歌をもう一度」
と言って、写生帖を持っていたのが念を押しました。
「武夫の手向の征箭も跡ふりて神寂び立てる杉の一もと」
「なるほど」
写生帖へその歌を書き込んで、
「読人《よみびと》は」
「読人知らず」
「年代はいつごろ」
「これも知らぬ」
「ははあ、よく歌だけを記憶しておられた、感心なこと」
と言って写生帖が感心すると、古歌の通《つう》が笑って、
「ここの石に刻《きざ》んであるからそれで知ったのだ」
「ははあ、石碑の受売りか。その石碑もまた相当に古色があって面白い、年代はいつごろだろうか知ら」
「よく年代を知りたがる人じゃ」
「ええ、明暦《めいれき》とある、肝腎《かんじん》の年号の数字のところが欠けていて見えない、明暦も元年から始まって三年まである、厳有院様《げんゆういんさま》の時代であって、左様、今から考えると、ざっと二百年の星霜を経ている」
「してみると、その歌もその時代に咏《よ》まれたものであろう」
「いや、もっと調子が古いわい、江戸時代の産物ではない。いったいこの笹子山は一名|坂東山《ばんどうやま》といって、古来、関東で名のある山、日本武尊《やまとたけるのみこと》以来の歴史がある」
「なるほど、してみるとその歌は、日本武尊がお咏みなされたお歌ではないか」
「違う、日本武尊時代にはこんな和歌は流行《はや》らなかった」
杉の根もとで勝手な考証を試みています。
「古来、この道を軍勢が通る時は必ずこの杉に矢を射立てて、山の神に手向《たむ》けをして通るならわしになっていた」
「我々もその古例を追うて、弓矢の手向けをして行こうではないか」
「我々のは、甲州を治
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