た女は少しの抵抗する模様もなく、背中へグッタリと垂れた面へおりおり木の繁みを洩れた月の光が触《さわ》ると、蝋《ろう》のように蒼白く、死んだものとしか見えません。
それを背中へ載せて路のないところを登って行くがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵。これもまた面の色が真蒼《まっさお》で、ほとんど生ける色はありません。木の根に助けられたり、岩の角に支えられたりして、上るには上るが、その息の切り方が今にも絶え入りそうで、やっと一丁も登ったかと思う時分に、力にした草の根が抜けると一堪《ひとたま》りもなく転々《ころころ》と下へ落ちました。
「ああ、苦しい」
二三間も下へ落ちて岩の出たところで支えられた時に、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、もう苦しくて苦しくてたまらなく見えましたけれど、その肩へ引っかけていたお絹の手首は決して放すことではありません。
はッ、はッと吐く息は唐箕《とうみ》の風のようであります。なんにしても、がんりき[#「がんりき」に傍点]は腕が一本しかないのです。その一本しかない腕で、お絹を肩に担いで、足と身体で調子を取って上ろうとする心だけが逸《はや》って、岩に足を踏掛けると足がツルリと辷《すべ》りました。
「あっ、苦しい」
またも二間ばかり下へ辷り落ちたがんりき[#「がんりき」に傍点]は、お絹と共に折重なって、暫らくは起き上れません。
「あっ、苦しくてたまらねえ」
やっと起き直って見ると、向《むこ》う脛《ずね》からダラダラと血が流れていました。
「畜生、こんなに向う脛を摺剥《すりむ》いてしまった」
そのままにしてお絹を引っかけて、また上りはじめてまた辷りました。
「こいつはいけねえ、いくら力を入れても辷って上れねえ、はッ、はッ」
やっと一間も登ると、ズルズルと七尺も辷っては落ちる。
「こんなことをしていたんじゃあ始まらねえ、帯はねえか、帯は」
ここに至ってがんりき[#「がんりき」に傍点]は、とても手首を掴まえて肩にかけて上ることの覚束《おぼつか》ないのを悟ったから、帯を求めて背中へ括《くく》りつけて登りにかかろうと気がついて、はじめて手首を放して大事そうにお絹の身体を岩蔭に置きました。
「死んでいるんじゃねえ、殺したと思うと違うんだよ、もう少し辛抱すりゃ活《いか》して上げますぜ御新造、はッ、はッ」
例の鎌のような月が、微かながらその光を差して、真白なお絹の面と肌とが活きて動くように見え出した時、がんりき[#「がんりき」に傍点]はどこかで大木の唸《うな》るような音を聞きました。
猫が鼠を捕った時は、暫らくそれをおもちゃにしているように、自分でそこへ抛り出したお絹の面《かお》を見ると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は物狂わしい心持で、
「こうしちゃいられねえんだ」
再びお絹を背負い上げて登りはじめようとしたが、この時はがんりき[#「がんりき」に傍点]の身体もほとんど疲労困憊《ひろうこんぱい》の極に達して、自分一人でさえ自分の身が持ち切れなくなってしまいました。この女を荷《にな》ってこの崖路《がけみち》を登ることはおろか、立って見つめているうちに、眼がクラクラとして、足がフラフラとして、どうにも持ち切れなくなったから、がんりき[#「がんりき」に傍点]はお絹の傍へ打倒れるようにして、烈しい吐息《といき》を、はっはっとつきながら峠の上を仰いで、
「矢立《やたて》の杉が唸《うな》っていやがる、矢立の杉が唸ると山に碌《ろく》なことはねえんだ。せめて、あの杉のところまで行きたかったんだが、この分じゃあもう一足も歩けねえ、といってこれから下へも降りられねえ、自分ながら自分の身体が始末にいけねえんだからじれってえな。うまくせしめるにはせしめたけれど、これだけじゃあ何にもならねえや。俺の腕はこんなもんだということを、七の兄貴にも見せてやりてえし、粂の親分にも見せてやりてえんだ。それからまた、勤番の御支配とやらが泊っている本陣から盗み出したといえば、ずいぶん幅が利かねえものでもねえ、これからこの女を連れて一足先に駒飼《こまかい》まで行って、そこで、どんなものだとみんなの面を見てやりゃあ、後はどうなったって虫がいらあ。峠を越してしまわねえうちは、こっちのもんでこっちのものでねえようなものだから、なんとかして漕《こ》ぎつけてえんだが、身体が利かねえから仕方がねえ。ああ、ほんとに弱った、死んでしめえそうだわい」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はついにそこへ、へたばって動けなくなりました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]が動けなくなった時分に、お絹が少しく動き出してきました。お絹が少し動き出した時分に、下の方で喧《やか》ましい人の声、上の方でもまた人の声。
昏倒《こんとう》しかけたがんりき[#「がんりき」に傍点]は、
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