]の身体を吊下げて、それを見ながら酒を飲んでいるのでありました。
「親分、どうか許して上げてください、あの人も悪いことがあるんでしょうけれど、あんなにまでなさらなくってもよろしうございます、どうか助けてやって下さい」
「いいや、いけねえ、あの野郎には、あれでもまだ身に沁《し》みたというところまでは行かねえんだ、もうちっと窮命《きゅうめい》さしてやる。お前もよく眼をあいて見ておきねえ、なんで下を向くんだ、よ、高さは僅か三十三|尋《ひろ》とちっとばかり、下はたんとも深くねえが、やっぱり三十と三尋、甲州|名代《なだい》の猿橋の真中にブラ下って桂川《かつらがわ》見物をさせてもらうなんぞは野郎も冥利《みょうり》だ。お前も可愛がったり可愛がられたりした野郎だ、よく見ておきねえ、なにもそんな処女《きむすめ》みたように恥かしがって下を向くことはねえじゃねえか」
 鳥沢の粂の傍にいる女、それは女軽業の頭領のお角でありました。
「親分さん、どうか助けて上げてくださいよう、死んでしまいます、悪い人は悪い人でも、あれではあんまり酷うございますから、早く解いてやって下さいよう」
「いいや、いけねえ。お前もずいぶん、女子供を買って来て危ねえ芸当をさせて銭をもうける職業《しょうべい》に似合わねえ、あのくらいの仕置《しおき》が見ていられねえでどうする。野郎に軽業をさせて今日はお前と俺がお客になって見物するんだ、この桟敷《さじき》は買切りだから誰に遠慮もいらねえ、首尾よく野郎の芸当が勤まれば、二人の手から祝儀をくれてやらあ」
「親分、どうしても解いて上げることができなければ、いっそ殺してしまって下さい、あんな目に会わされているより、一思いに殺されてしまった方がよいでしょうから。わたしも見ていられないから、早く殺してやって下さい」
「殺しちまっちゃあ、身も蓋《ふた》もねえや、ああいう野郎にはいろいろの芸当をさせてみて、死にかかったらまた水を吹っかけて生き返らして、またやらせるんだ。まあ、お角、一杯飲みな。俺があの野郎をあんな目に遭わせるから、俺は鬼か魔物みたようにお前の目に見えるか知れねえが、ずいぶんああしてやっていい筋があるんだ。あの野郎の生立《おいたち》から国を出るまでのことを残らず知ってるのが俺だ、俺にああされてあの野郎には文句が言えねえ筋があるんだ、俺にああされたから野郎は本望ぐれえに心得ていやがるだろう、これからゆっくりその話の筋を語って聞かせてやるから、落着いて聞いていねえ、それを聞いているうちにはなるほどと思うこともあるだろう、俺が酔興《すいきょう》であんな軽業をさせるんじゃねえと思う節《ふし》もあるだろう……おやおや、役人が大勢来やがったな、あ、百の野郎を引き上げたな。うむ、土地のやつらあ俺を憚《はば》かって手が着けられねえのを、木端《こっぱ》役人め、出しゃばりやがったな、面白《おもしれ》え、どうするか見ていてやれ、百の野郎がなんとぬかすか聞きものだ」

 駒井能登守の一行はその晩、猿橋駅の新井というのへ泊りました。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は一間へ引据えて置いたが、息の絶えるほど弱っているのだから、縄をかけるまでもあるまいと、与力同心は油断をしてそのままで置きました。
「鳥沢の粂という者を呼んで、ともかくもこの男と突き合せて見給え」
 能登守は命令の形式でなく、どうでもよいことのようにこう言って引込んでしまいました。
 与力同心の連中は、ちょうど慈恵学校の生徒が解剖の屍体をあてがわれたような心持で、がんりき[#「がんりき」に傍点]の再調べに着手すると共に、いわゆる鳥沢の粂なる者を引き出そうとしました。
 ところが粂はただいま外出して行方が知れないという返事であったから、更にその行方を厳《きび》しく詮索《せんさく》させることにして、一方にはがんりき[#「がんりき」に傍点]の百を三度目に引き出して調べてみました。いろいろにして泥を吐かせてみようとしたけれども、前と同じように百はいっこう口を開きません。あんな目に遭わされて、相手の罪を訴えないことがだいいち不思議であります。
「なあに、俺《わっし》が悪かったんでございますから、殺されたって仕方がねえんでございますから」
と言ったきり。
「貴様は、たいそう足の早い奴だな」
「へえ、歩くのは達者でございます」
「貴様は片腕が無い、それはどうしたのだ」
「これは怪我をしたから、お医者さんに切ってもらったんでございます」
「貴様は髪結渡世《かみゆいとせい》だと言ったが、その片腕で髪結ができるのか」
「へえ、両腕の揃っていた時分に叩き込んでありましたから、まだそれが片一方の方へいくらか残っているのでございます、けれども碌《ろく》な仕事はできませんからこのごろは職人任せでございます」
「貴様は身延《みの
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