ぶ》へ参詣に行くのだと申したがその通りか」
「左様でございます。お祖師様を信心致しますから、それで身延山へ参りてえと思って出かけて参りましたんで」
「身延の道者《どうじゃ》ならば講中《こうじゅう》とか連《つれ》とかいうものがありそうなもの、一人で出て歩くというは怪《け》しからん」
「それが、なんでございます、俺共《わっしども》は何の因果か人並みより足が早いんでございますから、講中の衆やなんかと一緒に歩いていた日にはまだるくてたまりません、それでございますから、どこへ行くにも一人でトットと出て行くんでございます」
「貴様が手形をもっておらんというのがどうしても怪しい、所、名前をもう一度そこで申してみろ」
「先にも申し上げた通り、手形を持っていたんでございますが、あの橋の真中へ吊される時に下へ落っこってしまったんでございます、桂川の水の中へ落してしまったんでございます。所、名前は山下の銀床《ぎんどこ》の銀といって……」
「よし、では鳥沢の粂を呼び出してからまた吟味《ぎんみ》をする、さがれ」
 一通りの調べを受けて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は次の間へ下げられて燈火《あかり》もない真暗なところへ抛《ほう》り込まれてしまいました。
「何だつまらねえ、猿橋を裏から見物させてもらうなんぞは、有難いくらいなものだが、こう身体が弱ってしまったんじゃどうにもやりきれねえ、今までのお調べは通り一遍だが、これから洗い立てられりゃ、どのみち、銀流しが剥《は》げるにきまってる、いつものがんりき[#「がんりき」に傍点]ならここらで逃げ出すんだが、身体の節々《ふしぶし》が痛んで歩けねえ」
と独言《ひとりごと》を言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]はコロリと横になりました。
 夜中になるとがんりき[#「がんりき」に傍点]の耳の傍で囁《ささや》く声がしたから、がんりき[#「がんりき」に傍点]はうとうとしていた眼を覚ました。
「百、しっかりしろ」
「兄貴か」
「野郎、また遣《や》り損《そこ》なったな、いいから俺と一緒に逃げろ」
「兄貴、動けねえ」
「意気地のねえ野郎だ、さあ俺の肩につかまれ」
「俺を荷物にしちゃあ兄貴、お前も動きがつくめえ、打捨《うっちゃ》っといてくれ」
「手前を打捨っておきゃあ、俺の首も危ねえんだ、早くしろ」
「それじゃせっかくだから、お言葉に甘えて御厄介になるべえ」
「人に世話を焼かせずに、自分から動き出す気にならなくちゃいけねえ」
 こうしてがんりき[#「がんりき」に傍点]を助けに来た奴と、助け出されて行くがんりき[#「がんりき」に傍点]は窓から逃げて行きました。窓を上手に切って、身体の自由になるようにして、細引で縄梯子《なわばしご》がかけてあったのを上手に脱け出したから、旅に疲れた与力同心の面々も更に気がつきませんでした。
「兄貴、よく来てくれた」
「ほんとうに世話の焼けた野郎とっちゃあ[#「とっちゃあ」に傍点]」
「どうも済まねえ」
「ははあ、今度という今度はいくらか身に沁《し》みたと見えて弱い音《ね》を吹き出したな」
「どうにもこうにも身体が痛んでやりきれねえ、そりゃそうと、兄貴、俺がここへ捕まってることがどうしてわかったんだい」
「初狩《はつかり》まで行ったところが、通りかかる馬方の口から変なことを聞いたもんだから、それで、もしやと引返してみたんだ」
「そうか。兄貴の前だが、猿橋を裏から見せられたのは今度が初めてよ」
「鳥沢の粂の野郎がそうしたんだというじゃねえか。野郎あんまりふざけたことをすると思ったから、わざわざ引返して来て見ると、粂の野郎もいなけりゃあ、手前の姿も橋のまわりには見えねえから聞いてみると、これこれのわけで、役人につかまって吟味最中ということだから、暫らく三島明神の裏に隠れて夜の更けるのを待って、それから忍んで行ってみたんだ」
「おかげさまで命拾いをしたようなもんだが、なにぶんこんなに身体が弱っていた日にゃ所詮《しょせん》遠道は利かねえ、あの役人というのが、勤番支配なんだから、一度はこうして助けてもらっても、あいつらに睨《にら》まれた上はどうもこの道中は危ねえな」
「なるほど、この様子じゃあ、どこかで二三日保養をしなくちゃあトテモ物にはならねえようだ。と言って、勤番支配を向うに廻したんじゃあ、滅多な家へ駈込むわけにもいかず……そうだ、いいことがある、これから粂の野郎のところへ押しかけて行こう、あの野郎、この界隈《かいわい》の親分面をして納まっているのが癪《しゃく》だ、これから二人で押しかけて行って、手前を預けて来ることにしようじゃねえか」
「粂の親分のところへ出直しに行くんだな。兄貴が一緒に行ってくれたら向うもマンザラな挨拶はすめえから、それじゃ、そういうことにしてもらいましょう。それから兄貴、お前が俺
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