わかれる道がございます。それから初狩《はつかり》、黒野田を通って笹子峠」
 本陣の主人は一通りの道案内を申しました。一行のうちにはここをしばしば通ったものもあるのだから、そんなに委《くわ》しく言う必要はないと思って手短かに案内をしたが、大部分は初めての甲州入りだから、珍らしがって名所の話をします。ことに日本三奇橋の一つと称せらるる猿橋に近くなったということが好奇心をそそって、
「いったい、その日本の三奇橋というのはドレとドレだ」
「周防《すおう》の錦帯橋《きんたいばし》、木曾の桟橋《かけはし》、それにこの甲斐の猿橋」
 一行のうちの物識《ものし》りが答えます。やがてこの本陣を出て右の猿橋へかかった時分に、そこで一行は、橋以外にまた奇体なものにぶっつかることになりました。
 鳥沢で休んで駒井能登守の一行がまたも悠々と甲州街道を上って行くと、ほどなく猿橋まで来かかりました。
 猿橋は有名な橋。その橋のところへ来ると、往来の人が怖々《こわごわ》と橋の左側の方ばかりを小さくなって駈けるようにして通るから、与力同心の面々が不思議に思って、
「ナゼ真中を通らぬ、橋がこわれているならナゼ普請《ふしん》をせぬ」
と言って咎《とが》めると、通りかかった男が、
「あ、あの通りでございます」
 青くなって指さしをしたから、その指さしをしたところを見ると、欄干に細引が結えつけてあって、それから釣忍《つりしのぶ》を吊《つる》したように何か吊してあるようです。何が吊してあるのかとよく見定めると人間が一人、四ツ手に絡《から》んで高さ十七間の猿橋の真中から吊り下げてありました。
「こりゃ怪《け》しからん、誰がこんなことをした」
「鳥沢の親分がこういうことをやりました」
「鳥沢の親分とは何者だ」
「鳥沢の粂《くめ》という、このあたりに聞えた親分でございます」
「何者であろうとも、斯様《かよう》な惨酷《さんこく》なことをするのを見逃しておくのは何事じゃ、ナゼ助けてやらぬ」
「粂が申します、これを解いてやった奴があれば生かしちゃ置かねえとこう申しますから、正直な土地の人は慄《ふる》え上ってまだ手をつける人はございません」
「憎い奴じゃ、上《かみ》を怖れぬ仕方、早く引き上げてやれ」
 与力同心は仲間小者と力を合せて、この細引にかけて吊してあった人間を引き上げてやりました。
 引き上げてみると、もう真蒼《まっさお》になって息が絶えている模様でしたから、薬をくれたり水をやったりして介抱すると幸いに息を吹き返しました。
「これ、気を確かに持て」
「有難うございます」
「其方《そのほう》は何者だ、どうして斯様な目に遭ったのだ」
「どうも相済みません、なあに、ちっとばかりこっちの悪戯《いたずら》が過ぎたから、それでこんな目に遭ったんでございます、打捨《うっちゃ》っておいて下さいまし」
「斯様な惨酷なことを致すものを打捨ててはおけぬ、聞けば鳥沢の粂とやらいう悪者の仕業《しわざ》じゃそうな。うむ、その粂という者はどこにいる」
「なあに、鳥沢の親分がやったんじゃあございません、俺《わっし》が慰みにやってみたんでございます」
「さてさて、貴様はわからぬ奴じゃ、包まず申せ、貴様のために仇《かたき》を取ってやる」
「なあに、仇なんぞは取っていただかなくってもよろしうございます、おかげさまで地獄から呼び戻されたのが何よりで、それでもう充分でございます」
「貴様はその粂とやらいう悪漢を怖れて包み隠すと見えるな、我々が聞いた以上はいかなる悪漢なりとても、後の祟《たた》りは少しも心配はないのじゃ」
「どう致しまして、たとえ粂であろうとも、鬼であろうとも、後の祟りを怖がってそれで包み隠すというようなわけじゃございません、どうか打捨ってお置きなすって下さいまし」
「貴様が白状しなければ別に調べる道もある、ともかく我々と一緒に本陣まで同道せい」
「どうか、このままお免《ゆる》しなすって下さいまし、歩けません」
 こんな酷《ひど》い目に遭わされながら何とも訴えないのは、そこに何か仔細がなければならぬと思って与力同心の面々は、この男を引き立てようとした時に気がついたのは、この男に片腕のないことでした。
 これより先、猿橋の西の詰《つめ》の茶屋の二階で郡内織の褞袍《どてら》を着て、長脇差を傍に引きつけて酒を飲んでいた一人の男がありました。年は五十に近いのだが、でっぷりと太って、額際《ひたいぎわ》に向う傷があって人相が険《けわ》しい。これは前にしばしば名前の出た鳥沢の粂という男であります。
 粂は二階から障子をあけ払って猿橋を一目にながめながら、
「どうだい、野郎をあんなにしてやった、いい心持だろう、あんなのを眺めて酒を飲むとよっぽどうめえ」
 粂は猿橋の真中から、亀の子のようにがんりき[#「がんりき」に傍点
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