った同心は空《むな》しく帰って来ました。
「怪しい奴、足の迅《はや》いこと無類でござりまする」
 同心はまず以て、その逃げ去った奴の足の迅いのに舌を捲いて復命しました。
「年はまだ若いようであったな」
「年はまだ若いようでございました、三十の上を幾つか越したくらい、遊び人風の男で、後ろ姿をチラリと見かけましたが、その迅いこと迅いこと」
「なんにしても怪しい奴じゃ、すべてあの通り足の迅い奴には悪いことをする者が多い、よく演劇や講談に現われる雲霧仁左衛門《くもきりにざえもん》という悪漢も足の迅い男であったそうじゃ」
「ああ、その雲霧仁左衛門という悪漢、それはこの上野原から出た奴にございます、この上野原のしかるべき家に生れた悪漢でございました」
「足が迅いと高飛びが自由にできる、それで今日ここで悪事をしても、明日は他国へ行って知らぬ面《かお》している、悪事千里を走るとはこのことじゃ」
「足が迅いから自然、手が長くなるのでございましょう。冗談はさて置き、あの怪しい奴、取逃がしたは残念、直ちに手配を致して取押えさせましょう」
「それには及ばぬ」
「せっかく御支配のお目に留まったものを取逃がして、面目がござりませぬ」
「向うの岸とこっちでは無理もないことじゃ、まして人間並みを外《はず》れた足の迅い奴、逃げるのがあたりまえで、逃がした方に罪はない」
「それと知ったら声をかけずに、何か手段があったろうものを」
「これから先のこと、甲府へ入るまでにきっと、あの者が再び現われることがあるに違いない、その時は油断せぬように」
「心得ました」
 与力同心の面々がみな多少の好奇心にそそられました。もとよりこれらの人々がワザワザ手配をして騒ぎ立てるほどの代物《しろもの》ではないが、道中の腕比《うでくら》べというようなことになってみると、多少の張合いが出て来るものでありました。それ故、無駄なことと思ったものまでが、休み茶屋や、泊り泊りにも用心をしてみる気になりました。しかしながら別段に変ったこともなく与瀬《よせ》の宿《しゅく》へ入って、これこれの者の姿を見かけなかったかと尋ねてみても、誰もそんな者を見かけたという者はなく、
「ただ、さきほど峠道で若いおかみさんが悪者に苛《いじ》められているところを、鳥沢の親分が通りかかって連れておいでになったばかりでございます」
と土地の人が言います。
「若いおかみさんが悪者に苛められているところを、鳥沢の親分が助けて連れてかえったと? してその若いおかみさんというのは……また鳥沢の親分というのは何者」
 与力同心が、土地の者の言葉尻を捉《とら》えてそれを訊《たず》ねてみました。
 よく聞いてみると、峠道で悪い胡麻《ごま》の蠅《はえ》にかかって苦しめられていたという女は、駒木野の関を通してもらった女であって、それを助けた鳥沢の親分というのは、鳥沢の粂《くめ》という親分であることがわかりました。
 鳥沢の粂というのは郡内《ぐんない》切っての親分であって、ずいぶん悪辣《あくらつ》なことをするし、また相応に義侠らしいこともする。この界隈《かいわい》では厄介者視しているものが半分と、畏服《いふく》しているものが半分という勢力であることもすぐにわかりました。
 それを聞いただけで、駒井能登守の一行は例の通り上野原までやって来ました。上野原の宿へ着いた時も、先触《さきぶれ》がなかったから役員どもを驚かしました。
 御支配のお着きということは本陣を大へんに騒がせたけれども、そのほかには至って無事で、一泊して翌日未明に出立。
 上野原を出て少しばかり坂を下ると、もうすぐに川であります。川の両岸には川越しの小屋が立っていて、真裸《まっぱだか》になった川越し人足が六七人ほど、散らばっているのが一目に見えました。
「これが鶴川の渡し場でございます」
「なるほど、先年|諏訪因幡守殿《すわいなばのかみどの》が人足どもに困らせられたという渡しはこれか」
「あれ以来、人足どもも大分おとなしくなりましたが、やっぱり気の荒い郡内の溢《あぶ》れ者《もの》でござるから、おりおり旅人が難儀する由でござりまする」
「ゆくゆくはなんとか取締りをしたいものじゃ、どこへ行っても、この裸虫には弱らせられる」
 一行は川越しの小屋のところまで来ると、宿役人から先に出向いていて、しきりに人足を指図していました。
「おいおい御支配のお通りだ、ほかの旅人は控えているがよろしい、御支配のお通りが済んでから通らっしゃい」
と言って、川の両岸の通行を暫らく差押えました。それがために両岸に多くの通行人が溜《たま》って、駒井能登守の渡ってしまうのを待っていました。
「どうしたのか、両岸に人がたかっている」
 能登守は不審に思いました。
「御支配様、どうぞこれをお召しなすって下さいまし」
 
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