の通り、強く罪人を扱うてかえって罪を大きくしてやることになり、或いは寛《ゆる》やかに扱い過ぎてかえって増長を来すようなこともある」
「寛厳よろしきを得たりということは治政の要術で、その術はまた治者の人格である、くだらぬ人格の者が、みだりに寛厳の術を弄《ろう》すればかえって人の軽侮を招く」
「大阪の与力大塩平八郎の事件などがそれじゃ、あれは跡部山城守殿《あとべやましろのかみどの》が大塩を見るの明《めい》がないから起ったことである。奉行が大きければ大塩は非常な用をする、奉行が小さくて大塩が大きかった故あんなことになったという説がある」
「大塩はとにかく近代での人物である、是非善悪は論ぜず、貧民のためにあれほどのことを為し得る奴はほかにはあるまいと思われる、あの乱もまた大塩自身の人物もあろうけれど、時のハズミというものもなきにあらず」
「国民の富豪に対する怨恨《うらみ》がようやくに熟していたから火蓋《ひぶた》が切られたのじゃ。それにつけても思うのは、このごろ江戸に起った貧窮組、浅ましいようでもあるし、おかしいようでもあるが、あれもまた時世を警《いまし》むる一つの徴候《しるし》」
 駒井能登守の一行は、時事を論じたり、風景を語ったりしながら、小仏峠の頂上まで登ってしまいました。
 頂上に中の茶屋があって、そこに休んで見ると赤飯《せきはん》がありました。その赤飯を大盤振舞《おおばんぶるまい》にして与力同心、仲間馬方に至るまで食いました。能登守もまたそれを抓《つま》んで喜んで食いました。なおお茶を飲む者もあれば水を飲む者もあります。頂上まで上って見ればこれからは下りであります。下り道は上り道よりも楽であります。上野原泊りの予定は、遊びながらでも着くことができるのであります。
 能登守は柄に似合わない健脚でした。いちばん早く参るだろうと思われた能登守がいちばん疲れないで歩いて来ましたから、
「御支配は健脚だ、いや身体の華奢《きゃしゃ》なものはそれだけ足の負担が軽いからそれで疲れないので、我々は頑健肥満に生れた罰でかえって山路に難渋する」
と言って、与力のなかで、いちばん肥満していちばんよく話をした男が、いちばん早く疲れて愚痴を言いました。
「おのおの方は、あまりよく口を利きなさるからそれで疲れるのだろう、すべて険岨《けんそ》を通る時や遠路《とおみち》をする時は、あまり口を利かない方がよいそうじゃ」
 能登守はこう言った。なるほど、いちばん疲れない能登守がいちばん喋《しゃべ》らなかった。
「無言で気息を調《ととの》えて歩けばよろしかろうけれど、そこが旅は道づれで、いろいろの話をして歩きたいのが凡夫の常だ。よしよし、今度は無言の行を続ける」
 とにかく、中の茶屋で休んで、赤飯などを噛《かじ》っていると、誰も彼も疲れなんどは一時に忘れてしまいました。その元気で茶屋を立って下りにかかりましたが、上りに懲《こ》りて無言の行を続けると言った肥満の与力は、渋面《じゅうめん》を作って口を噤《つぐ》んで歩きましたが、それにひきかえて能登守が今度はいろいろの話をやり出しました。街道筋の地勢や要害を指さしながら、土地案内の与力同心に聞いてみたり、自分の意見を述べてみたりしました。時々|諧謔《かいぎゃく》を弄して一行を笑わせたりしました。それで話の花が咲いて、登りの時より一層賑やかになりました。強《し》いて口を噤んでいた与力の連中もまた談話中の人となって、疲れた足を引きずりながら、息をはずませて気焔を上げていました。
 山腹の左の方から渓水《たにみず》が湧き出て滝のように流れています。それが深い谷に落ちて淵《ふち》になったり、また岩に激して流れ出したりする変化が面白い。その渓水を幾十曲りもして見ると、向うに二軒の茅屋《あばらや》が見える。その前に板橋があって、渓水がそこへ来て逆に流れている景色がなかなか面白いから、一行はそこで暫らく立って景色を見ていました。すると駒井能登守が、
「あれ見よ、あの家の後ろを怪しげな男が通るわ」
と言いました。一同は谷川の景色ばかり見ていたのでしたが、能登守にこう言われて、前の山の二軒の茅屋のところに眼をうつすと、そこを一人の旅人が急速力で、サッサと歩いて行くのを認めます。菅笠《すげがさ》を被って道中差《どうちゅうざし》を差して、足ごしらえをしてキリリとした扮装《いでたち》で、向う岸の茅屋の後ろを飛ぶが如くに歩いて行きます。
「あれは何者だ、足の早い奴」
と驚いていると、能登守が、
「いかにも怪しげな奴じゃ、関所の裏を通ったものと見ゆる、誰ぞ行って追蒐《おいか》けてみられよ」
「心得ました」
 同心が二人、板橋を渡って向う岸へと飛んで行きました。
 怪しげな旅の男はそれを知って、山の中へ逃げ込んで、かいくれ姿を隠したから、追いかけて行
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