ここに憐《あわれ》むべき宇治山田の米友は、己《おの》れの間に閉じ籠ったまま、沈痛な色を漲《みなぎ》らせて腕を組んで物思いに耽《ふけ》っています。
 米友は、ここまでの道中で二度|失敗《しくじ》ったことを良心に責められています。
 米友が失敗ったその一度は、上野原の宿で一行に出し抜かれて、無理な鶴川渡りをしてやっと追いついた事、その二度目は昨夜の騒動であります。
 彼は、この道中が終るまでは、寸分の隙《すき》もなくお絹とお松とを守っておらねばならぬ使命がある。彼自身もまたその使命を粗末にしようとは思っていなかったのに、昨夜という昨夜、与力同心に招かれて槍の話になって、有頂天《うちょうてん》に気焔を吐いてしまいました。
 その隙にお絹が天狗に浚《さら》われたのだから、幸いにしてお絹は帰って来たからいいようなものの、もし帰らなければ、所詮《しょせん》自分の腹切り勝負だと思いました。とてもここにこうしてはいられぬ、面目のないことだと思いました。米友は、それ故に良心の呵責《かしゃく》を受けています。しかし、米友の単純な心でも、どうもあれからのお絹の挙動が解《げ》せない、他の人が騒ぐほどに騒がないお絹の心持がわかりません。髪容《かみかたち》や着物のさんざんになって帰って来たところを見れば、かなりヒドイ目に遭って来たのだろうと思われるにもかかわらず、そのヒドイ目に遭わした奴に仕返しをしてやろうという気が更に見えない。仕返しをしてみようという気がないばかりでなく、そのために山狩りをして悪い奴を捉まえようとするのを、よけいなことのように見ています。
 それよりもなおわからないのは、昨夜あれほどに人騒がせをやった当人であるにかかわらず、今日はもうケロリとしてしまって、甲府から迎えに来たというお武士《さむらい》を引張り上げて、あの通り御機嫌よくもてなしているということが、正直な米友にとっては忌々《いまいま》しいことです。
 あんなとりとまりのない人間を、槍を持って番人に廻っているのがばかばかしいと考えている時に、障子が不意にあきました。見ればやや酒気を帯びたお絹がそこに立って、
「友さん」
「うむ」
「昨夜《ゆうべ》はどうもお騒がせをしました、あの甲府から神尾主膳様がお迎えにおいで下すって、お供の衆もたくさんついていますから、もうこれからは安心、今までお前さんにもいろいろお世話になりましたけれど、これからはもうお前さんの勝手に旅をしてようござんすよ」
「ええ?」
「お前さんは、これから江戸の方へ帰りなさるとも、また甲府の方へ行ってみようとも、もうわたしたちにかまわないで、自分の気儘《きまま》にしておいでなさい」
「うむ」
「これは少しだけれど、ほんの、わたしたちの志《こころざし》、どうぞ納めておいて下さい。それから、もしお前さんが甲府へ行っても、今までの調子で心安立《こころやすだ》てに、殿様のお邸なんぞへ無暗にやって来られては困ることもあるから、そこは遠慮をしておいておくれ、そのうち御縁があればまた何とかして上げないものでもありませんからね」
 金一封を包んでそこに置いたまま、眼をパチパチさせて口を吃《ども》らせている米友を見返りもしないで、お絹はさっさとこの場を立って行きました。
 お絹の置いていった金一封を前にして米友は、暫く呆然《ぼうぜん》としていたが、やがて冷笑に変ってしまいました。
「ばかにしてやがら」
 その一封を横の方から突いてみました。突いてみたのはなにも、その中にどのくらい入っているかというのを試したわけではありません。あんまりばかばかしいから、小突《こづ》き廻してみたのであります。米友は、これらの連中の譜代の家来でもなければ臨時の雇人でもない。甲州へ行こうというのは、必ずしもこの人の附添が目的なのではないのです。これは行きがけの駄賃のようなもので、米友はお君に会いたくてたまらないから、それで甲州へ行く気になったものであります。
 この附添は頼んだものでなくて頼まれたものである。いつ断わられたところで敢《あえ》て痛痒《つうよう》を感ずるわけではないけれど、ここで断わるというのは、あんまり人をばかにした仕打ちであると思いました。それだから米友は、
「勝手にしやがれ」
と言って、またその金一封を小突き廻しました。金一封を小突き廻したところで始まらないのであるが、この場合、米友の癇癪《かんしゃく》のやり場としては、どうしても眼の前の金一封が的《まと》になります。
「ばかにしてやがら、こんな金なんぞ要《い》らねえ」
 米友はいったん、左の方から小突き廻した金一封を、今度は右の方から小突き廻しました。その有様は、掴《つか》んで抛り出すのも汚《けが》らわしいといった手つきであります。
 よしよし、これからは一本立ちで甲府へ行って見せるとも
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