、峠を越せば甲府まで一日で行けるということだ、小遣《こづかい》だって何もそのくらいのことには困りはしない、こんな金なんぞ要るものか、突返しに行くのも、あの女の面《つら》を見るのが癪だから、と言って置放しにして行けば、誰か取ってしまった時に米友が持って出たと思われるのが業腹《ごうはら》だと米友は、眼の前の金一封を睨《にら》めながら、腹を立てたり始末に困ったりしていましたが、結局庭へ抛り出してしまうのがいちばんよろしいと考えました。庭へ抛り出して撒き散らかして置けば、人の目に触れて、自分が持って出なかった証拠が立つと思いました。米友はその金一封を掴んで、ゲジゲジでも取って捨てるような手つきで持ち出して、障子をあけてポンと庭の方へ、それもお絹の部屋の方へ近く、なるたけ人の眼に触れるようなところへと思って投げ出しました。
 米友に投げられた金一封は、庭の松の木の幹に当ってコツンと音がしましたけれど、かなり固く封がしてあったと見えて、そのまま転がってしまったから、とても、梅忠《うめちゅう》がやったような花々しい光景にはなりません。
「ちぇッ」
 米友は舌打ちをしてその抛り出した金一封を尻目にかけながら、自分は手荷物と例の手槍と脚絆《きゃはん》なんぞを掻き集めて、旅の仕度にとりかかります。
 旅の仕度が出来上って、いざと米友は縁へ出ましたけれど、いま投げ出した金一封が、封のままでゴロリとそこに転がっているのが眼ざわりでたまりません。
 米友の気象として、決してその金一封に未練があるのなんのというのではないけれど、ああして置いて誰にも見られないでほかの人に拾われてしまっては、結局やはり、自分が持って逃げたように思われてしまうのが心外であるから、松の根方に転がっている金一封を暫らくながめていましたが、そのうち、
「そうだ、そうだ、お暇乞《いとまご》いの印《しるし》にあいつの座敷へこれを抛り込んでやれ」
 何か思案がついたと見えて、庭へ飛び下りて、その金一封を拾い取るや米友は覘《ねら》いを定めて、それをお絹の座敷へ障子越しに投げ込みました。
 その時に、お絹の座敷にはお絹がいませんでした。お松がひとりで机によりかかって、本陣で貸してくれた本を読んでいました。
 そこへ怖ろしい音がして、障子を突き破ってちょうど自分の読んでいた絵本の上へ、重い物が落ちて来たからお松は吃驚《びっくり》しました。もう少しで自分の眉間《みけん》へ当るところであった。誰がこんな悪戯《いたずら》をしたのであろうと、お松は急いでその破れた障子をあけて見ました。
 障子をあけて見ると、米友がいま丸くなって植込の中を向うへ逃げて行く姿が見えましたから、お松は何のことだかわけがわからずに、
「友さん、友さん、今ここへ石を投げたのはお前かえ」
と言って廊下を追いかけるようにしてみましたけれど、米友は返事もしなければ、振返りもしないで、例の足どりで逃げて行ってしまいます。お松はいよいよ事情《わけ》がわからないけれど、米友はすっかり旅の装《よそお》いをして逃げて行くから、ともかくもつかまえて、様子を聞いてみなければならないと思いました。米友は気が短くて怒りっぽいし、それに時々勘違いをして怒り出す癖があるから、これも何か気に入らないことがあって逃げ出すのだろうと思ったから、呼び留めて事情《わけ》を聞いた上で、理解してやりさえすれば直ぐに納まるものと、大急ぎで廊下を駈けて有合せの草履《ぞうり》をつっかけて米友を追いかけました。
 表から逃げないで、裏の方の笹川へ沿うたところの細い道を逃げて行く米友を、お松は追いかけながら、
「友さん、どうしたのです、そう無暗に逃げてしまっては事情《わけ》がわからないじゃありませんか、少し待って下さい、事情を話して下さい、わたしたちを置いてけぼりにして逃げてしまうのは酷《ひど》いじゃありませんか、少し待って下さいよ、ね、友さん」
 お松がこう言って呼びかけた声の聞えないはずはありませんのに、米友はあとをも振返らず、いよいよ一生懸命で逃げて行きました。
「友さん、事情《わけ》がわかりさえすれば、お前の出て行くのを留めはしませんから、ちょっと待って話をして行って下さい、ね、友さん、何が気に入らないの、わたしはこんなに疲れてしまった、これほどにしてお前を追いかけて来たのに、お前が聞かないふりをして行ってしまえば、もし甲府へ着いた時に、君ちゃんの在所《ありか》がわかってもお前には知らせて上げないよ」
 お松は駈けながら息を切って、こう言うと、この遠矢《とおや》が幾分か米友に利いたと見えて、米友は急に立ち止まり、
「お松さん、お松さん、俺《おい》らはこれからひとりで甲府へ行くんだ、俺らがどういうわけでひとりで甲府へ行くようになったのか、いま投げてやった包み物に聞いてみる
前へ 次へ
全31ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング