い込んで参りましたところ、この辺にて姿を見失い申した、もしやお見かけはござらぬか」
「とんとお見受け申さぬ」
「はて」
と言って能登守の手の者は、挨拶に出た主膳の家来どもを怪訝《けげん》な眼でながめ、
「ただいま、このところでたしかにその者の姿を見かけたものがござるが」
「我々の方においては左様な者を一向に見かけ申さぬ」
「年の頃は三十ぐらい、色が白く、小作り、もとは江戸の髪結職《かみゆいしょく》であった者、それに誰が眼にも著しいのは左の片腕が無いこと」
「ははあ」
「怪しい廉《かど》が多い故、いちおう取押えて置きたい」
「それは御苦労千万。しておのおの方は?」
「我々は、このたび甲府勤番支配を承った駒井能登守の手の者、甲府へ赴任の道すがらでござるが」
「しからば、これより峠を登り行くうち、まんいち左様なものに出逢い申さぬとも限らぬ、その折は取押えてお引渡しを致すでござろう、これにて御免」
これにはかまわずに、乗物を進めようとするから、能登守の手の同心と手先はあわててその前に立ち塞がるようにして、
「あいや、お暇は取らせぬ、暫時《ざんじ》お待ち下されたい。して御貴殿方はどなたでござるか、お名乗りを承りたい」
こう言って能登守の手の者が、神尾の駕籠先を押えるようにしました。ここに至ってドチラにも多少の意地ずくが見えました。
「おのおの方にお名乗り申す由はない。たって姓名が承りたくば能登守|直々《じきじき》においであるがよろしい」
と神尾の者がこう言いました。
この時に、駒井能登守と渡辺という与力が、峠を下りて近いところまでやって来ました。
それと聞いて渡辺は神尾の駕籠近く寄って来て、
「お乗物の中へ物申す、拙者は甲府勤番支配の与力渡辺三次郎、失礼ながらお名乗りを承りたい」
この時に神尾主膳が駕籠の垂《たれ》を上げて外を見ると、おりから来かかった駒井能登守と面《かお》を合わせたが、さあらぬ体《てい》で、
「拙者事は、同じく甲府勤番の組頭神尾主膳でござる、今日は私用にてこのところを通行致す故、公用向きの礼儀は後日に譲る、お尋ねの怪しい者とやら一向に我等は存知致さぬ、前路にちと急の用事あるにより、これにて御免」
こう言ったままで、垂を下ろさせてさっさと駕籠を進ませました。だから能登守の左右の者が、その無礼を憤《いか》って眼と眼を見合わせると、能登守はなにげなき風情《ふぜい》で取合いません。
十
こうして神尾主膳の一行は笹子峠を向うへ越えて、黒野田の本陣へ着きました。
黒野田の本陣へ神尾の一行が着いた分には仔細がないけれど、その一つの駕籠の中に隠して来たがんりき[#「がんりき」に傍点]をこの宿へ連れ込むとすれば無事ではないはずだが、一行がこの本陣の前へ着いた時に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の駕籠だけはここへ留めないで、「鳥沢まで送ってやれ」ということになったのは、思うにまたしてもその鳥沢の粂という親分のところまで送り返されるものであろうと思われる。
がんりき[#「がんりき」に傍点]だけを鳥沢へ送りとどけて、神尾の一行が、この本陣へ着いた時に、本陣では前の晩に能登守を泊めたと同じぐらいのもてなしをせねばなりません。
そうしてそれぞれ失礼のないようにお迎え申したけれど、ここに奇怪なのはお絹の素振《そぶ》りでありました。この時、お絹はもう昨夜の災難のことなどは、ケロリと忘れてしまっているようでした。朝寝を少し永くしたぐらいのところで、主膳を迎うべく薄化粧などをして、主膳が着くと、真先に立って下へも置かぬもてなしが、何も知らぬ本陣の人々には別段おかしくもなかったろうけれど、前後を知っているお松には、あんまりそらぞらしいように思われてなりませんでした。
なぜならば、駒井能登守をもてなす時は、神尾の殿様などは有っても無くってもいいような口振をして見せたのに、その能登守が去って神尾主膳が来てみると、能登守なんぞはどこを通ったかというようにして、もう一も二も神尾でなければならないように、そわそわしているからであります。よくもこうまで手のうらを返すようになれるものかと、お松がそれをあまりにそらぞらしく浅ましく思ったのも無理はありません。それのみならず、神尾がここへ着くと共に、早速に酒宴が始まって、お絹が先立ちでその周旋《とりもち》をするという体《てい》たらくになってしまい、お松が座を外して隠れるようにしていると、神尾主膳は、お絹を相手にして盛んに飲みながら、お前もひとりで貞女暮しは淋しいことだろうとか、殿様も甲府ではまた罪をお作りになったことでございましょうとか、お松か、あれも年頃になったな、お前の仕込みだから抜かりもあるまいとかいうような言葉を洩れ聞いたお松は、面《かお》から火が出るようでありました。
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