「なに?」
能登守は、お松の改まった様子を少しく気に留めた様子です。
「あの、お願いでござりまする」
とお松は、いよいよ改まった言葉でありました。
「願いとは?」
能登守は鎌のような月を見ていた眼を、お松の方へ向けました。そうして雪洞《ぼんぼり》の光に照らされたお松の面《かお》に一生懸命の色が映っていることを認めて、これには仔細《しさい》があるだろうと感じました。
「あの、わたくしどもが甲府へ参りまするのは、冤《むじつ》の罪で牢屋につながれている人を助けに参るのでございます」
「人を助けに?」
「それ故、殿様のお力添えをお願い致したいのでございまする」
お松は夢中になってここまで言ってしまいました。ここまで言ってしまえばともかくも安心と、ホッと息をつきました。
「果して冤《むじつ》の罪であるものならば、わしの力を借りるまでもなく罪は赦《ゆる》される。もし、まことに罪があるものならば、わしが力添えをしたとてどうにもなるものではない」
と能登守は、お松の願いの筋には深く触れないで、やや慰め面《がお》にこう言っただけでした。しかしお松はもう、一旦切り出した勇気がついたから、その頼みの綱を外《はず》すようなことはしません。
「いいえ、たしかに冤《むじつ》の罪なのでございまする、その方は決して盗みなどをなさる方ではないのでございまする、公儀様の御金蔵を破るなどという、だいそれたことをなさるお方でないことは、わたしが命にかけてもお請合《うけあい》を致しまする、それがあらぬお疑いのためにただいま御牢内に繋《つな》がれておいであそばす故、わたくしは心配でなりませぬ、何卒してそのお方をお助け申し上げたいと、それでわたくしどもは甲府へ参りますのでござりまする、甲府へ参りまして、神尾主膳様からそのお願いを致すつもりでございますが……」
お松は一息にこれだけを言ってしまいました。能登守は、お松の願うほど熱心にそれを聞いたのか聞かないのか知らないけれど、笹子峠の上にかかった鎌のような月にばかり見恍れているのであります。
そのうちに廊下を渡り了《おわ》って、能登守の居間の近くまで来ました。
八
お松が帰って来た時分に、お絹のいなかったことは別に怪しいことではありません。
お絹は風呂から出ると、浴衣《ゆかた》を引っかけたままで暫く渓流に臨んで湯上りの肌を、山岳
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