の空気に打たせていました。
 前にいう通り、すぐ眼の上なる笹子峠には鎌のような月がかかっている。四方の山は桶《おけ》を立てたようで、桂川へ落ちる笹川の渓流が淙々《そうそう》として縁の下を流れています。
 自分にいい寄って来る男を物の数とも思わないような気位が、年と共に薄らいでゆくことが、自分ながらよくよくわかります。それ故にがんりき[#「がんりき」に傍点]とお角とが仲よくして歩くところを見ると嫉《や》けて仕方がありませんでした。
 有体《ありてい》に言えば今のお絹は、男が欲しくて欲しくてたまらないのであります。男でさえあれば、どんな男でも相手にするというほどに荒《すさ》んでくることが、このごろでもたえず起って来るようでありました。
「あの、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という男、御苦労さまにわたしたちを附け覘《ねら》ってこの甲州へ追蒐《おっか》けて来たが、あの猿橋で、土地の親分とやらに捉まって酷い目にあったそうな、ほんとにお気の毒な話」
とお絹は、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことと、それが猿橋へ吊されたという話を思い出して、ほほ笑み、
「七兵衛が助けると言って出かけたが、ほんとに助かったか知ら。酔興とは言いながら、かわいそうのような心持がする、何のつもりか知らないけれど、わたしを追蒐けて来たと思えば、あんな男でもまんざら憎くはない、命がけで、わたしの後を追蒐けて来る心持が可愛い」
 今となっては、たとえ無頼漢《ならずもの》であろうとも、自分に調戯《からか》ってくれる男のないことが淋しいくらいでありました。
 こんなことをいつまで考えていても際限がないと、お絹は浴衣の襟をつくろってそこを立とうとした時に、縁の下の笹藪《ささやぶ》がガサと動いて、幽霊のようなものが谷川の中から、煙のように舞い出した。あれと驚くまもなくお絹の首筋をすーっと一巻き捲いてしまいました。
「何を……何をなさるの……」
 その幽霊のようなものは、お絹の首筋をすーッと捲いて、その面《かお》を自分の胸のあたりへ厳しく締めつけたものだから、それでお絹は、言葉を出すことができなくなってしまいました。
「御新造《ごしんぞ》、がんりき[#「がんりき」に傍点]だ、百だよ」
と言って、有無《うむ》を言わさず縁の下へ引き下ろしてしまいました。
 河童《かっぱ》に浚《さら》われるというのは、ちょうどこん
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