は同じぐらいであったそうだけれども、その人品は大へんな相違があると思いました。それですから、もし神尾の殿様に願って通らなかった時は、この殿様に願えば必ず叶《かな》えて下さるだろうと思われてなりませんでした。或いは神尾の殿様に願わない前に、この殿様にお願いした方が、事がすんなりと運ぶだろうと、お松はそこまで考えてきました。それでこの殿様に、この意味で取入っておくことが幸いであると気がつきました。お絹がお松をして能登守に取入らせようという心と、お松が自身で能登守を頼ろうとする心とは全く別なのであります。
 そう考えてくると、お松はこの時が好い機会であると思わないわけにもゆきませんでした。同じ甲府へ行く旅にしても、身分も違えば目的も違う、この後、こんなに親しくお目にかかれる機会があるかどうかわからぬとお松はそこへ気がついたから、どうしても今宵《こよい》を過ごさず能登守に向って、兵馬の身の上のお願いをしてみるほかはないと、心が少しいらだつようになりました。
 こんなことを考えている時に、能登守は風呂から上った様子でありましたから、お松は立って行きました。そうしてお松は、能登守の着物を着替える世話をしてやりました。能登守はお松の親切を喜んで、打解けて見えます。
 お松は言い出そう、言い出そうとしましたけれども、つい言い出しにくくなって、お願いがございますと咽喉まで出てそれが言えないで、自分ながら気がいらだつのみであります。
 お松が能登守のために雪洞《ぼんぼり》を捧げて長い廊下を渡って行く時に、笹子峠の上へ鎌のような月がかかっているのが見えました。
 能登守は静かに廊下を歩きながら、その月を振仰いで見ました。
「そなたは、江戸からこんなところへ来て淋しいとは思わないか」
と能登守はお松を顧《かえり》みてこう言ってくれました。その言葉があったために、さっきから一生懸命で、言い出そう言い出そうとしていたお松は一時に力を得て、
「いいえ、淋しいとは思いませぬ、少しも」
と言葉にも力を入れて返事をしました。
「それはえらい」
と言って、能登守は賞《ほ》めたけれど、お松の言葉よりは鎌のような月の方に見恍《みと》れているのでありました。
「殿様」
 お松はここでせいいっぱいに殿様といって能登守を呼びかけましたけれど、自分ながらその言葉の顫《ふる》えていることに驚いたくらいでありました。

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