ります。
面白半分な面をして聞いているのはまだ真面目《まじめ》な方で、米友がこの部屋へ入って来る早々から笑いこけて、いまだにゲラゲラ笑っているものもあります。もう腹の皮を痛くしてしまって、このうえ笑えないで苦しがっているようなのもあります。
これは米友が好んでここへ押しかけて来たのではありません。彼等は早くもこの宿へ米友が来たということを知って、相当の礼を以て招《まね》いたから米友はここへ来たのでありました。
与力同心は、米友の頭を見て笑ってやろうというような心で米友を招いたのではなく、この不思議な人物の持っている、不思議な能力を解決してみたいからでありました。
しかしながら、招かれて来た米友の頭を見た時は哄《どっ》と笑ってしまいました。人を招いておきながら、その人の入って来るのを見て、声を合せて笑い出すということは礼儀ではありませんけれども、つい笑ってしまいました。しかし笑われても米友は必ずしも腹を立てませんでした。
「笑っちゃいけねえ」
と言って座に着いてから、やがて話が槍のことまで及んで来て、
「一生稽古したって駄目な奴は駄目なんだ、俺らなんぞは木下流の槍の手筋を三日しか稽古しねえんだ、木下流とも言えば淡路流とも言うんだ、三日稽古をしてその秘伝《こつ》をすっかり呑込んでしまったんだ」
という気焔を上げています。
七
お絹が手紙を持ち扱い、米友が与力同心の中で気焔を吐いている間に、お松は風呂場で駒井能登守の世話をしておりました。
お松は次の間に控えて、能登守の風呂から上るのを待っています。
その間に兵馬のことを考えています。いま甲府の牢内に囚《とら》われているという兵馬を助けんがためには、神尾主膳に頼ることが最良の道であることに七兵衛もお絹も一致しているが、お松には神尾の殿様という人が、それほど頼みになる人とは思われません。ここにおいでなさる駒井能登守という殿様は、神尾の殿様よりも一層頼みになりそうな殿様であると、こう思わないわけにはゆきません。甲府勤番支配は、ある意味において、甲州の国主大名と同じことだと言ってお絹から聞かされました。神尾の殿様に比べて強大な権力を持っている人だということもお絹から聞かされました。その上に、ちょっとお目にかかっただけでも、大層お優しい方だとお松は頼もしく思いました。神尾の殿様とは、以前の知行高
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