に対して反逆者でもあるかのように見られたり、薩長の犬であるかのように疑ぐられたりしますから、出兵、出兵、出兵に限るというようなことに傾いて行きました。なんでもドシドシ兵を繰り出して長州から薩摩の果て、琉球までも踏みつぶしてやらねばならぬと意気込みを示した者も大分あったようです。
 この出兵論が正しいか正しくないかは知れないが、いよいよ事実になってみると愚劣を極めたものでした。最初の長州征伐は、どうにかこうにかお茶を濁して幕府の面目をつないだけれども、二度目となってはカラキリお話になりませんでした。幕府の威信を張るどころではなく、かえってグニャグニャと腰が砕けて、長州からあべこべに寄り出されて引込みがつかなくなってしまいました。長州征伐をやっても、やらなくても、もうたいてい幕府の寿命はきまっていたのだから、それがいいでもなし悪いでもないけれど、とにかく長州征伐をやったために、徳川幕府の寿命がまだ十年持つところを、九年早めてしまったような形勢は争うべからざるものであります。
 勝海舟《かつかいしゅう》のような目先の見えたものが――そういう場合に出て来たからおたがいに幸いでありました。けれどもその勝さんすら、いよいよ長州征伐が手に負えなくなった時に引っぱり出されたので、それまで引籠りを仰《おお》せつけられて幕府から勘当を受けていたような有様でありました。
 駒井能登守はこんな時節に、甲州の山の中へ来るようにさせられたということも何かの廻り合せでありましょう。
 駒井能登守が甲府へ入ることを悲しむ連中は、こんなことを言います、
「あれは山の中へ送るべき人間ではない、海の外へ向わせなければならない人物だ、外国との折衝《せっしょう》がこれほど面倒になってゆく世の中に、あの人物を山の中に送り込む当局者の気が知れない、駒井を甲州へやるのは舟を山へ送るのと同じで、しかもその舟も、旧来の伝馬船《てんません》や荷足《にたり》ではなく、新式の舶来の蒸気船だ、蒸気船を山へ積み込むとは、なるほどこのごろの徳川幕府のやりそうなことだ」
 これは駒井|贔屓《びいき》の方の言い分で、駒井が西洋の知識に暗からず、且つ外交官として相応《ふさわ》しい器量のすべてを持っているように信じている者の口から出ました。
 それと反対の方の言い分はこんなものであります、
「あれは若い者共には人気は相当にあるけれど、本
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