相談が持ち上ってしまいました。
 甲府の勤番支配は三千石高の芙蓉間詰《ふようのまづめ》であります。その下には与力《よりき》が十名と同心が五十人ずつあって、五百石以下の勤番が二百人は甲府の地に居住しています。支配は二人であることもあり一人は欠員のままであることもあります。御役知《おやくち》は千石で、本邸は江戸にあって住居は甲府へ置く。
 駒井能登守が勤番支配に任命されたのはどういう意味だかよく判りません。或る者はこれを栄転だとして嫉《ねた》みます、或る者は左遷だとして悲しみます。とにもかくにも能登守がまだ三十に足らぬ若年者であってこの地位に置かれたことは、ドチラにしてもその人物の非凡である証拠にはなります。
 その頃の幕議に長州出兵論というのがある。薩州と長州との横着《おうちゃく》があまりといえば目に余る、どうしてもまず長州から征伐してかからねば、幕府の威信が地に落つるというのが、長州出兵論の根拠であります。この長州出兵論を唱える者の中には、徳川譜代恩顧の者で徳川にとっては無二の精忠者があります。これらの人は本心から薩長あたりの暴慢《ぼうまん》をにくんで、徳川のために死のうという連中でありました。またそれらの熱心な長州出兵論を鼻の先でセセラ笑っている者もありました。これは徳川とはあまり縁の薄い方の平民側の中の蔭口に多いのです。その言い草を聞けば、
「ナーンだ、長州出兵なんて、よけいなことだ。お膝元を見るがいい、貧窮組がああして騒ぎ廻っているじゃないか。貧窮組がああして騒ぎ廻っている間に、頼まれもしない長州くんだりまで兵隊を出してどうする気だ。そんなことをするよりは印旛沼《いんばぬま》の掘割りでもした方がよっぽど割がいいぜ」
 こんなことを言って、ばかばかしがっている者もあります。
 また一方には譜代以外の者で、盛んに長州出兵に声援を与える者もありました。これはずいぶん変り者で、もとより徳川のために死のうというほどの縁故もなければ熱心もないのだが、何か景気をつけて自分たちの仕事をこしらえたいという浪人者、或いは自称志士の連中が多かったということであります。口先ばかりでもなんでも景気のいいことは雷同し易いから、精忠無二の長州出兵論よりも、景気のよい人たちの唱える出兵論が、だいぶ徳川に受けがよくなりました。まかり間違ってもそれに異議を唱えるような口ぶりをしようものなら、徳川
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