人はただ西洋の知識を多少心得ているというだけのことで、実務にかけてはいいかげんの無能者で、時々調子をはずれたところで思い切ったことをするから、危なくて仕方がない、腫物《はれもの》に触《さわ》るようなこのごろの外国向きのことに、あんな青二才を使えるものではない、甲州の山の中へ入って、摺《す》れからしの勤番の中で揉《も》まれて来るのが身のためだ」
これは駒井を多少けむたがっている老成者の間から出る評判でありました。とにかく未知数の人間だけれども、どのみち、まだまだ叩き上げなければものにならないという嫉悪《しつお》と軽侮《けいぶ》とそれから、幾分か敬畏《けいい》の念も入っているのであります。
そうかと思うとまたこんな一説もあります。幕府は駒井の人物を見抜いてワザと甲府へ納めるのだ、甲府は天険であって、まんいち徳川幕府がグラつき出す時は、そこが唯一の根城となる、まんいちの場合をおもんばかって、駒井を遣《つか》わして地利や兵備を調べさせておくのだと。これもまた駒井贔屓の者の臆想《おくそう》でありました。
またその他の一説は、駒井能登守が甲州入りをするようになったのは、高島四郎太夫に関係することである、駒井は早く四郎太夫に就いて洋式の砲術を研究したり、西洋の事情を調べたりしたから、高島と同じような嫌疑《けんぎ》でこの左遷を蒙《こうむ》ったのだと。これも駒井崇拝の若い人々の口から洩れて来るのでありました。
高島四郎太夫(秋帆《しゅうはん》)が幕府から怖れられたのは、他の勤王家の連中が幕府から怖れられたのとは全く違います。秋帆には大藩を動かして権力を争ってみようとか、砲術を研究してそれによって虚名を博そうとか、そんな野心は少しもなかったものであります。国内のことに空《むな》しく慷慨悲憤《こうがいひふん》している連中などの、梯子《はしご》をかけても及ばないところにその着眼と規模とがあって、長崎の微々たる小吏でありながら、諸侯の力を借りずに独力でもって大事を行うほどの実力を持っていたから、それで怖れられたのです。けれどもその秋帆とても、もう罪(?)を赦《ゆる》されて、江川太郎左衛門を助けていろいろ熱心にその研究をつづけている時分のことであったから、なにもいまさらその祟《たた》りが駒井能登守へ報《むく》って来るという理由はないことなのであります。
とにもかくにも、こんな風評の間
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