くなって運が開けたのは家康公だ、謙信あるうちは信長公の志は遂げられなかったように、信玄存する間、家康公も実際手も足も出せなかった御様子だ」
「しかし、信長公も家康公も、信玄、謙信とはともかくも手合せをしておられるけれど、太閤だけは、ついぞ張り合ってみたことがないようでござるが、あの太閤の軍《いくさ》ぶりと、信玄、謙信あたりと掛け合わせてみたらどんなものであったろう。信玄、謙信に向っては織田公も家康公も二目も三目も置いたような軍《いくさ》ぶりをしておられたが、太閤ならばどんなものであったろうか知ら」
「それは手合せがなかっただけに面白い見立《みたて》にはなる。後に太閤の世になってから、太閤がこの甲州へ来て、信玄の木像を叩いていうことには、お前も早く死んで仕合せな坊さんだ、いま生きていたならばおれの馬の先に立って、下座触《げざぶれ》をするようなことになるのだと言って笑ったそうだが、太閤の眼から見ると、そんなものであったかも知れない」
「いや、太閤という人は、派手師《はでし》で人気を取るのが上手、いつもそんなことを言って人を慴伏《しょうふく》させるのだが、信玄とても、それほどやすくはない。現に太閤なども家康公の弓矢には閉口しておられた、その家康公を苦しめたほどの信玄だから、太閤のような派手師にとっては、謙信よりも信玄の方が苦手かも知れぬ」
こんな話をして小山田備中の城、岩殿山の前をめぐりながら進んで行く。
「この城によって反《そむ》いたものがあるから、勝頼が天目山にちぢまって最期《さいご》を遂げることになってしまったということじゃ。小山田備中は果して忠臣であり、勇士であったろうか知らん。とにもかくにも要害は要害じゃ」
大月を過ぎて初狩、立川原《たてかわら》、白野《しらの》から阿弥陀《あみだ》街道を練って行く。
「山国とは言いながら、どっちを見ても山ばかり、よくもこう山があったものじゃ。岩殿山が要害なばかりではない、甲州全体が一つの要害じゃ、小仏なり、笹子なりに兵を置けば、いかなる大軍も攻め入る手段《てだて》はなかろう、一夫これを守れば万卒も越え難しというのはまさにこれじゃ。東の方はこれで、南はまた富士川口があるばかり、西と北とは山また山、信玄も豪《えら》かったには相違ないが、この要害で守るに易く攻めるに難い地の理がよろしい。およそ四海に事を為す能わざる時に、この山国に
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