立籠《たてこも》って天下の勢《せい》を引受けてみるも一興ではないか」
「左様な要害なればこそ、この国が天領であって、柳沢甲斐守以外には封《ほう》を受けたものが一人も無い。まんいち江戸城に事起った時は、この城がいかなるお役に立つやも計り難し。そうなると我々の勤めもまた重い」
 阿弥陀街道を過ぎると黒野田の宿《しゅく》、ここは笹子峠の東の麓で本陣があります。日脚《ひあし》はまだ高いけれど、明日は笹子峠の難所を越えるのだから、今夜はここへ泊ることになりました。
 この黒野田へ泊ったものは駒井能登守の一行ばかりではありませんでした。本陣へは先触《さきぶれ》があって能登守の一行が占領してしまったけれど、林屋慶蔵というのと、殿村茂助という二軒の宿屋にも少なからぬ客が泊っていました。
 笹子峠を下って来た客もこの黒野田で宿を取る。笹子峠へ上ろうとする旅人もここで泊って翌日立とうとするのだから、自然に足を留める。それに今日は勤番支配の一行が入り込んだから、この小さな山間の小駅が人を以て溢《あふ》れるという景気になってしまいました。
 駒井能登守の一行が本陣へ着いてしまってから、少しばかりたってこの宿へ入り込んで来た二挺の駕籠がありました。駕籠の中は何者だか知れないが、その傍に附いているのが例の米友であることによって大抵は想像されましょう。幸いにして米友は託された人の乗物に追いつくことができたらしい。

         五

 二つの駕籠の宿《しゅく》の休所へ駕籠を下ろして本陣へ掛合いにやると、
「今晩は御支配様のお泊りでございますから」
と言って、余儀なく謝絶《ことわ》られてしまいました。林屋というのと殿村というのと、そのいずれも満員です。満員でないまでもその空間《あきま》というのは到底、この乗物の客を満足させることができないものばかりでしたから、さてここへ来て途方に暮れ、
「弱ったな」
 米友が弱音を吹きました。
「兄さん」
 駕籠の中から垂《たれ》を上げて、米友を呼びかけたのはお絹でありました。
「何だ」
「この本陣に泊っている御支配様というのは、何というお方だか聞いてみて下さい」
「おい、茶店のおじさん、本陣に泊っている御支配というのは何というお方だか知っているかい」
「へえ、それはこのたび、甲府の勤番御支配で御入国になりまする駒井能登守様と申しまするお方でございます」

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