まを襲用して差支えなしということであったが、ただ一つ、甲州の軍勢が用いた毒矢だけは使用相成らずと東照権現のお声がかりであった。信玄は毒矢を平気で用いておられたが東照公はそれをお嫌いなされた、そこに両将の器量の相違がある」
「信玄公は、智略において第一、惜しいことに人情に乏しい、民を治《おさ》めることは上手であったにかかわらず、その徳が二代に及ばず、その術が甲斐信濃以上に出づることができなかった。越後の上杉謙信はそれに比べると勇気第一、それとても北国を切り従えたのみで上洛《じょうらく》の望みは遂げず、次に織田右大臣、よく大業を為し得たけれど、その身は非業《ひごう》の死。豊臣太閤に至って前代未聞《ぜんだいみもん》の盛事。それもはや浪花《なにわ》の夢と消えて、世は徳川に至りて流れも長く治まる。剛強必ず死して仁義《じんぎ》王たりという本文を目《ま》のあたりに見るようじゃ」
例によって官用だか名所見物だかわからないような調子で歩いて行きました。
駒井能登守のつれて来た与力同心は、大抵若い連中でありました。なかに老巧者もいないことはないが、話の中心になるのは若い連中であったから、ややもすれば批評が出たり、議論が出たりします。
「何といっても信玄と謙信の食い合いが戦国時代ではいちばん力の入った相撲だ。すべて相撲は段違いでは面白くないし、そうかといって同じ型の相撲が力ずくで揉《も》み合うのも面白くない、そこへゆくと謙信の勇に信玄の智、義を重んずる謙信と、老獪《ろうかい》な信玄と、型が違って互角なのが虚々実々と火花を散らして戦うところは古今の観物《みもの》だ。まあ、あんな相撲はおそらく日本の戦争に二つとはあるまいな、戦国の時代ではまさにあれが両大関だ」
「それはそうに違いない、川中島の掛引《かけひき》は軍記で読んでも人を唸《うな》らせる、実際に見ておいたら、どのくらい学問になったか知れぬ。我々は不幸にしてその時代に遭《あ》わなかったことを憾《うら》むくらいのものだが、しかしなお遺憾なことは、あの両大関を空しく甲斐と越後の片隅に取組ましてしまって、本場所へ出して後から出た横綱と噛み合わせてみなかったことが残念だな」
「それは誰でもそう思う、信玄と謙信が、もう少し長生《ながいき》をしていたら、トテモ信長公が天下を取るわけにはゆかぬ、信長公が世に出なければ太閤というものも世に出るわけに
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