を出し抜いて甲府へ立たせたあの御新造と娘は、ありゃあ今どこにいる」
「ははは、まだそんなことを言ってるのか。ありゃ今晩|下初狩《しもはつかり》へ泊っているから明日は笹子峠へかかるんだ、あの峠が危ねえと思ったから、俺が附いて行くつもりであったが、手前がこんな様子じゃあ二三日は安心ができる、二三日安心している間には甲府の城下へ一足お先に着いているから、甲府まで送り込んでしまえば、俺の肩が休まるんだ。百、お気の毒だけれど、とうとう物にならねえらしいぜ」
「ふふん、まだそう見縊《みくび》ったものでもねえ」

         四

 与力同心の面々はその翌朝になって仰天しました。
 逃げられてしまった。たかを括《くく》っていたために逃げられてしまった。逃げられたのよりも逃げたのが不思議であると思いました。あんな死にかけた身体で、どうして逃げ出したか。
 旅の一興で練習問題として扱われた代物《しろもの》ではあるけれども、逃げられたのは不面目である、役人の名折れにもなるから黙っているわけにはいかないとあって、与力同心の面々は駒井能登守にこのことを申し出でて恐縮すると、
「このたびの甲州入りは、なにもあの者共を追い廻すために来たのではない、歩いている間に打突《ぶっつ》かって来たら、捉《つか》まえてみるがよし、逃げて行ったら逃がしておくがよし」
 そこで、今までのひっかかりはいっさい断ち切ってしまって、翌朝駒井能登守の一行は猿橋駅を立ち出でて、またも悠々として甲州道中をつづけました。
 猿橋から殿上《とのうえ》、横尾、駒橋《こまばし》を通って大月へ出た時分に、
「この大きな一枚岩のような山、これが武田の勇将|小山田備中守《おやまだびっちゅうのかみ》が居城|岩殿山《いわとのさん》、要害としても面白いが景色としても面白い。備中守|信茂《のぶしげ》はたしかこの城で二度の勇気を現わしているようだ。一度は村上義清の手から逆襲された時、五十余人でこれを守って守り通してその間に信玄の援兵が来た。二度は武田の末路の時、織田の兵をここで引受けて備中守が斬死《きりじに》した。武田家にはさすがに勇士がある、天険がある、この天険あり勇士あってついに亡びたのは天運ぜひもなし」
「いかにも、武田家の武略には東照権現も心から敬服しておられた。徳川家の世になって甲州の仕法《しほう》は、いっさい信玄の為し置かれたま
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