ませんでした。大きな騒ぎを持ち上げないこともない、見世物小屋の失敗《しくじり》などはかなり大きな失敗でしたけれども、それがために古市《ふるいち》における場合のように、槍を振り廻すことのなかったのはまだしもの幸いでしたが、今はとうとう本式の喧嘩を持ち上げてしまいました。しかもその相手が最も悪い、雲助のなかでも最も性質《たち》の悪い郡内の雲助ですから、米友も実に飛んでもない相手を引受けたものです。市川|海老蔵《えびぞう》は甲府へ乗り込む時にここの川越しに百両の金を強請《ゆす》られたために怖毛《おぞけ》を振《ふる》って、後にこの本街道を避けて大菩薩越えをしたということ。性質《たち》の悪いことにおいて甲州街道の雲助は定評がある。その雲助を、あんなことを言って罵ってしまったから、その怒り出すことは火を見るようなものです。何のためか、ここの人足は長い竹竿を横にして、それに十数人の人足がつかまって乗物の先に立って川を渡す、今、その竹の竿を担ぎ出して米友を引払ってしまおうとしました。
 駒井能登守の一行は不意の出来事に驚いて暫らく立って見ていると、岩の上に立って杖を遣《つか》う米友の敏捷《びんしょう》なこと。
 蟻《あり》のように上りかける人足を片端《かたはし》から突いて突き落す。寄手がいよいよ多ければ、いよいよ突き落す。裸体《はだか》の雲助が岩の上からバタバタと突き落されたところは、ちょうど千破剣《ちはや》の城をせめた北条勢が、楠《くすのき》のために切岸《きりぎし》の上から追い落されるような有様ですから、目をすまして見物していると、
「こいつら、俺らの懐中《ふところ》にまだ槍の穂が蔵《しま》ってあることを知らねえか、今こうして手前たちを突き落しているのはこの棒だけれど、いよいよという場合には穂をつけて、ほんとうに突き殺すからそう思え、今は怪我をしねえようにそっと突いていてやるんだ、穂をつけてから、米友がほんとうに荒《あば》れ出したら、いちいち突き殺して、この河原を裸虫で埋めるようなことになるからそう思え。何だい、そんな長い竿なんぞを持って来やがって、俺らを叩き落そうと言うんだな。よしよし、そんならほんとうに棒の天辺《てっぺん》へ刃物をくっつけるぞ、さあこれだ、これをちゃあんと棒の先へつけて槍に組み立てるように仕掛が出来てるんだ、これで突いたら命はねえんだからなそう思え、面《つら》
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