あるまい」
「左様、八ヶ岳にも雪が深いし、地蔵岳《じぞうだけ》も大分|被《かぶ》りはじめたようだから、それが風のかげんで甲府の空を冷たくするのであろう、なかなか寒い」
「まあ、ここへ来て温まり給え、寒さ凌《しの》ぎに一献《いっこん》参《まい》らせる」
「催促をしたようで恐れ入るな」
「拙者ひとりで寒さ凌ぎをやろうと思うていたところ、折よく分部殿がお見え、それにまた貴殿のおいでで甚だ嬉しい、ゆっくりと寛《くつろ》いで行ってくれ給え」
 三人は飲んでようやく興が加わる時分に、山口四郎右衛門が何をか不平面《ふへいがお》に、
「御両所、近いうちに新しい勤番支配が来ることをお聞きなされたか、その風聞《うわさ》がたぶん御両所の耳にも入ったことと存ずる」
「ナニ、支配が来ると? しからば今まで欠けていた勤番支配の穴が埋まるのか、それは初耳じゃ、我々はトンと左様な噂《うわさ》は聞かぬ。して、いかなる人がどこから来るのじゃ」
 神尾と分部とは、自分たちの上に立つべき勤番支配の一人が新しく任命されて来るという報告を、山口の口から耳新しく聞いて意外に感じました。単に意外に感ずるばかりではなく、不安と妬心《としん》とがきらめいて見えるのです。
「左様か、まだ御両所にはそのことをお聞き召されなんだか。しからばお話し申そう、このたびお役目を承って我々共の支配に来るのは、表二番町の駒井じゃ」
「ナニ駒井? 二番町の駒井能登《こまいのと》が来るのか、あの駒井が」
 神尾主膳は他人事《ひとごと》でないような思い入れで、いそがわしくまばたきをしました。
「いかにもその駒井能登守」
「左様か、駒井が来るのか」
 神尾は絶望して、取って投げるような返答ぶりでした。
「太田筑前殿は老巧者《ろうこうもの》だ、我等が上にいただいても敢《あえ》て不足はないが、駒井は何者だ、あれは我々よりズット年下、しかも知行高《ちぎょうだか》も格式も以前は我々に劣《おと》ること数等、若い時は眼中に置かなかったものじゃ。今となってあれに先《せん》を越されて剰《あまつさ》え、我々が支配として頭に頂かねばならぬとは情けない。ああ、そう聞いては酒がうまくない、世の中が面白くないわい」
「それは我々も同じこと。なるほど、駒井は学問は多少あるにはあるだろう、我々が道楽をして遊んでいた時分に、あいつは青い面《かお》をして書物と首っ引きをしてい
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