た故、山のぼりなどをしてはおれぬ」
「急用と申しますのは?」
「黒野田の宿で、何か変事が出来たということじゃ」
「へえ、あのお絹様と、それからお松どのとが何か難儀にお遭《あ》いなされましたか」
「左様」
「それは大変でござりまする。してその難儀と申しまするのは?」
「くわしいことはわからぬが、盗賊か胡麻《ごま》の蠅《はえ》に過ぎまいと思う」
「それはまことに心がかりでござりまする」
「とにかく、黒野田へ行って見ての上でないと拙者にもわからぬ。それから滝田、この道中、ことによると駒井能登守という旗本と出逢うかも知れぬ、それはこのたび、甲府へお役になった拙者の知合いだ、たぶん我々が峠へ登る時分に、駒井は下りて来るだろうから、やがて行逢った時は、乗物を下りて名乗り合うのはこと面倒だから、知らぬ面《かお》をして通れ」
「畏《かしこ》まりました」
「なるべくならば神尾主膳と名乗りたくない、尋ねたならば、諏訪《すわ》の家中で江戸へ下るとでも申しておいたがよろしかろう」
「畏まりました」
 こうして神尾主膳の一行が関所を出て橋を渡って休所の、すしや重兵衛の前を通って駒飼《こまかい》へと進んで行きました。
 その時は、まだ早朝のことでありました。神尾主膳の一行が駒飼の宿から出て、いよいよ笹子峠の上りにかかろうとする時分に、不意に傍《かたえ》なる林の中から人が飛び出して、主膳の駕籠わきに転がってしまいました。
「何者だ」
といって家来の連中が立ち塞《ふさ》がると、
「どうかお助けなすっておくんなさいまし、どなた様かは存じませぬが、九死一生《きゅうしいっしょう》の場合でございます、お見かけ申してお願い申すんでございます、どうかお助けなすって下さいまし」
 駕籠の傍へ手をついたのは、なるほど、九死一生と見えて髪は乱れ、白い着物は裂け、身体じゅう突傷《つききず》だの擦傷《かすりきず》だので惨憺《さんたん》たるもので、その上に右の片腕が一本無い男であります。
「次第によっては助けてやるまいものでもないが、其方《そのほう》は何者だ、どうして斯様《かよう》なことになった」
「身延山へ参詣する者でございます、途中で悪い奴に遭ってこんな目に逢わされてしまいました、お話し申せば長いことでございます、ここではお話が申し上げられません。あれ、いま追手がかかります、追手というのはお役人でございます、お役人が
前へ 次へ
全62ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング