のところを言ってるんだ」
「野郎、ふざけたことを吐《ぬか》すな、このお膝元《ひざもと》で、永らく公方様の御恩になっていながら、公方様の悪口を言うなんて飛んでもねえ野郎だ」
 雑談が口論となり、口論が喧嘩になろうとするところへ、
「まあまあ、皆さん、お静かになさいまし」
 現われたのは、問題の片手のない中剃《なかぞ》りの上手な親方。
「憎い野郎だ、公方様の悪口なんぞを言やがって」
 一人は余憤勃々《よふんぼつぼつ》。それを銀床の親方はなだめて、
「少し酔っぱらってるようでございますね」
「太《ふて》え野郎だ、どうも眼つきがおかしいから、あんな奴が薩摩の廻し者なんだろう」
「ナニ、御酒《ごしゅ》のかげんでございますよ」
 親方がしきりになだめているところへ、
「これ神妙にしろ、いま公儀へ対して無礼の言を吐いたものは誰だ」
 ズカズカと茶袋《ちゃぶくろ》が一人入って来ました。入って来ると共に茶袋は、店前《みせさき》に落ちていた紙片を手早く拾い取って、威丈高《いたけだか》に店の者を睨《にら》みつけます。
 茶袋というのは、幕府がこのごろ募集しかけた歩兵のことで、筒袖《つつそで》を着て袴腰《はかまごし》のあるズボンを穿《は》いているからそれでそう言ったもので、あんまり良い人が集まらなかったから、多くは市中の破落戸《ならずもの》を集めたものであります。どうも仕方がないからこの破落戸を集めて、歩兵隊を組織して西洋流に訓練をさせていったが、本来破落戸であったのが急に茶袋を穿き、かりそめにも二本差すようになったから、これらの連中の威張り方といったらない。それで市民は茶袋茶袋といってゲジゲジのように思っていたものです。今も今とて、公方様の不敬問題で口論した揚句のところへこの茶袋がやって来たから、床の者はみんな悪い奴が来たなと思いました。
「公方様へ対して悪口を申し上げるなんて、そんなことは決してあるものじゃございません」
 腕のない親方が詫《わ》びをいう。
「黙れ黙れ、ここにいる客人のうちで、公方様の悪口を申し上げた奴がある、恐れ多くも今の公方様では納まりがつかぬ、浪人者の方が旗本よりもズット鼻息が荒いなどと、高声《こうせい》で噪《さわ》いでいたと知らせて来た者がある。誰がそのように無礼なことを申したか名乗って出ろ、これへ名乗って出ろ。名乗って出なければ店の者共を片っぱしから引括《ひっくく》る」
 どうも相手が悪い、と店の者は震え上りました。
「そんなわけではございません……実は」
 最後の口論の相手になった男、しかもそれは公方様を悪く言ったのではなく、公方様を悪く言ったのを憤慨した方が何か申しわけをしようとすると、
「貴様だろう、無礼者め!」
 茶袋は飛んで行ってその男の横面《よこつら》をピシリと打って、その手を逆に捻《ひね》り上げてしまいましたから、
「ア、これは、これは、滅相《めっそう》なことをなされますな、私は公方様の悪口なんて、そんなことを申し上げた覚えはございません」
「いや、貴様に違いない、お膝元に住居《すまい》致し、永らく徳川家の御恩を蒙《こうむ》りながら、公儀に対して悪口《あっこう》を申すとは言語道断《ごんごどうだん》な奴」
「いえいえ、私がなんでそのようなことを申しましょう、実は……私の方でそれをとめましたので、そんなことを言っては恐れ多いとそれをとめましたのでございますから……飛んでもない、私がそんなことを」
「こいつが、こいつが、自分の罪を人になすりつけようと致すか、いよいよ以て図々しい奴」
 茶袋はその口を捻《ね》じ上げました。それを見兼ねて片腕の親方が割って出で、
「これは歩兵様、まあお聞きなすって下さいまし、このお方は決して左様なことを申し上げたのではございません、実はこういうわけなんでございます」
「貴様は何だ」
「私はこの店の亭主でございまして、銀と申します、私が細かいことを存じておりますから、どうかお手をおゆるめなすって、一通りお聞きなすって下さいまし」
「貴様、知っているならナゼ最初から知ってると申さん、正直に言ってみろ」
「公方様の悪口を申し上げるほどのことではございません、ただ話の調子でございまして、ツイ威勢のいいことを申しましたのが、少しばかり声が高くなりましたので。それもこのお方ではございません、そんなことを申しましたお客様はたった今お帰りになってしまいましたので。このお客様なんぞは傍《わき》で聞いておりまして、そんなことを言ってはよくなかろうぜと気をつけて上げたくらいでございます。どう致しまして公方様の悪口なんて、私風情《わたしふぜい》がそんなことを申し上げようものなら口が曲ってしまいまする。この方はそれをお留め申しただけでございます、どうか御勘弁なすって下さいまし」
「ナニ、この男が悪口を申し上げたのではない、ほかの客が言ったのをこの男が留めたのだと? しからばその客というのは誰だ」
「それはただいまお帰りになりました」
「帰った? 帰ったところで貴様の店の得意だろうから所番地は知ってるだろう、何の町の何というものだ、さあそれを言え」
「それがちょうどお通りがかりのお客でございまして、ツイお名前もところもお聞き申しておきませんでございました」
「白々《しらじら》しい言いわけを申すな。どうも当節は、ややもすればお上の御威光を軽く見る奴があって奇怪《きっかい》じゃ、見せしめのために厳しくせんければならん。亭主、この上かれこれ申すと貴様も同罪だぞ」
「飛んでもないことで。どうかそのお方はお許しなすって下さいまし、そのお方が悪いことを申し上げたのでないことは、どこまでも私共が証人でございます」
「喧《やかま》しい、強《た》ってこいつが悪口を申し上げたことでないとならば、その本人をここへ連れて来い。その本人が出て、私が申しました、恐れ入りましたと白状した時に限ってこいつを許してやる」
「それは御無理と申すもので。まるっきり証拠も何もないことでお捕《つか》まえなさるのはあんまり御無理なことで……」
「ナニ、証拠がないから無理だと? 証拠呼ばわりをして言い抜けをしようなどとは、いよいよ以て図々しい。証拠が有ろうとも無かろうとも、我々歩兵隊の耳に入った以上は退引《のっぴき》のならぬことじゃ。しかし、理非曲直が立たねば政道も立たぬ道理じゃ、歩兵隊は無理を言わぬという証拠にその証拠を見せてやる。これ見ろ、これはいま貴様の家の店前《みせさき》で拾ったものじゃ、さあこれを見たら文句はあるまい」
 突き出したのは、この店へ入りがけに茶袋が拾った一枚の紙。それはいま読んだ「恐れ乍《なが》ら売弘《うりひろ》めの為の口上、家伝いゑもち、別製|煉《ねり》やうくん」と書いた、紛《まぎ》れもなく今の将軍家を誹謗《ひぼう》した刷物《すりもの》です。悪い奴に、悪い物を拾われました。
「この証拠を見た上は文句はあるまい。文句のない上に、亭主、貴様の罪が重くなったぞ。さあ、拙者と同道して、両人共に我々の兵営まで罷《まか》り出ろ。あとのやつらは神妙に待っておれ、お差図があるまでここを動いてはならん」

 この危急存亡の秋《とき》に、天なる哉、命《めい》なる哉、ゆらりゆらりとこの店へ繰込《くりこ》んだものがありました。それは別人ならず、長者町の道庵先生でありました。
「親方、これはどうしたというものだ」
 道庵先生はぬからぬ面《かお》。

         九

「おや、これは長者町の先生、おいでなさいまし。実はこういうわけなんで……」
 片腕のない髪結床《かみゆいどこ》の亭主は手短かにこの場の仔細を物語ると、道庵は感心したような面《かお》をして聞いていましたが、
「ははあなるほど、それは歩兵さんのお聞き違いだろう。時に歩兵さん、わたしはこの長者町に住んでいる道庵といって、長者町ではかなり面の古い男でございますから、どうか私にお任せなすって下さいまし」
「相成らん、引込んでいろ」
「そんなことをおっしゃらずに、私にお任せなすって下さいまし、男に不足もございましょうが、どうか道庵の面を立ててお任せなすって下さいまし」
「くどい、ほかのこととは違って苟且《かりそめ》にも上様の悪口を申し上げた奴、その分には捨て置き難い」
「そんなことをおっしゃらずに、まあお任せなすって下さいましよ」
 道庵先生は幽霊のような変てこな手つきをして、突然茶袋の首根っ子へかじりつくようにしましたから、茶袋は腹が立つやらおかしいやら、
「無礼な奴、控《ひか》えろ」
「歩兵さん、そんなことをおっしゃってはいけませんよ、第一、私にしたところで、ここにいるお客にしたところで、みんなこのお江戸で育った人たちですよ、江戸に生れた人で権現様のおかげを蒙らぬ人はござんすまい、その権現様以来の上様の悪口なんぞを申し上げる者が、江戸っ子の中にあるわけのものではございませんよ、ですからそれは嘘《うそ》にきまっていますよ、私が成り代ってこの通りお詫《わ》びを致しますから、今日のところはおおめに見てやっておくんなさんしょう」
 道庵先生だって、責任のあるところへ出て口を利かせれば、そう無茶ばかり言うものではありません。相当の条理を立てて詫びていると、茶袋はいよいよつけあがり、
「貴様は、今ここへ来たばかりで何も事情を知らん、その事情を知らん者が、でしゃばって仲裁ぶりをするとは猪口才《ちょこざい》だ。こっちには確かに訴え出でた人もあり、この通り証拠もある。なお申し開くことがあれば屯所へ出てから申せ、貴様も証人として出たくば引張ってやる」
 歩兵はうるさいから、道庵の胸倉《むなぐら》を取って嚇《おどか》すと、
「歩兵さん、歩兵さん、まあお待ちなさいまし、どうか穏かに話を致そうではございませんか。いったいあなた様方は、町奉行や酒井様などのような、古手といっては失敬だが、旧式のお役人と違って、こうして開けて来た西洋の新式の調練を受けておいでなさる歩兵さんでございましょう、それですから、モウ少し話がわかりそうなものでございますね」
と言って道庵は、自分の胸倉を取った歩兵の腕を逆に取り返しました。逆に取り返したと言っても、それを逆指《ぎゃくゆび》や片胸捕《かたむねと》りで鮮《あざや》かにとっちめて、大向うを唸《うな》らせるような芸当がこの先生にできるはずはないが、不思議なことに、荒っぽく道庵の胸倉を取った茶袋が、それを逆に取り返されると、甚だおとなしくその手を外《はず》して、
「うむ、そう言われればなるほどだ、我々は町奉行や新徴組のような融通の利かぬ者共とは違って、新式の調練を受けているものだ、高島流の砲術も江川流の測量も一切心得ている」
「左様でございましょうとも。人の胸倉を取るなんということは、みんな旧式の兵隊のすることでございます、歩兵さんに限ってそんなことはございません、やっぱり西洋流に、こうして握手ということをなさるんでございましょうね」
 歩兵が存外|温和《おとな》しく外した手を、道庵先生が握り締めると、
「ははあ、貴様はなかなか話せる、医者だけあって脈処《みゃくどころ》がうまいわい」
 茶袋は急にニコニコしてきました。
 今まで威張りくさっていた茶袋が、急に面《かお》を崩して、
「貴様は話せる」
と言って道庵と握手をして、
「よしよし、万事貴様に任せてやる、貴様からこの者共をよく説諭《せつゆ》してやるがよい、拙者も今日のところは特別の穏便《おんびん》を以て聞捨てにして遣《つか》わす」
「いや、どうも有難うございます」
 道庵は額を丁と拍《う》って、取って附けたようなお辞儀をした時分には、せっかく包みかけた道庵が危なく転げ出してきました。
「貴様は少々酔っているようだな」
「へえ、いつでも酔っぱらっているのでございます、町内では酔っぱらいで御厄介になっているのでございます」
 何かわからないことを言ってまたお辞儀をする。茶袋はその形をおかしがって渋面《じゅうめん》を作り、
「以来、気をつけろ」
と言って出て行ってしまいました。道庵先生の出る幕は、大抵のことが茶番になってしまいます。
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