夫婦喧嘩でもなんでも、道庵ひとたび出づれば大抵は茶にして納まりをつける。それが時としては道庵の一徳であり、時としては道庵先生の人格を軽くする所以《ゆえん》となることもあります。しかしながらこの場の働きは、たしかに先生の器量を一段と上げてしまいました。なんとなればこれはお鍋や八公の夫婦喧嘩とは違って、相手が始末の悪い茶袋ときていたところへ、事は上様の不敬問題だから、屯所へ引張られた上は、まず生命は覚束《おぼつか》ないものと思わなければならない。それを道庵が出て易々《やすやす》と解決をつけてしまったから、今まで黒山のように人だかりしていた連中が、ここで一度に哄《どっ》と喝采《かっさい》しました。そうして口々に先生の器量を讃《ほ》める言葉を記してみるとこういうことになります。
「どうでげす、あの道庵さんは大したものじゃあございませんか、お前さんごらんなすったか、ああしていったん胸倉を取られたところを道庵さんが逆に取り返した、あすこが見物《みもの》なんでげす、あれがその、柔術《やわら》の方で逆指といって、左の指の甲の方からこうして掴《つか》んで、掌を上の方へこう向けて強くあげるんでげすな、そうするとそれ、指を取られた方は、騒げば騒ぐほどこっちがその拳を自分の方へ向けてこう曲げるものですから、指が折れてしまう。柔術取《やわらと》りの名人にああして指を取られてしまったが最後、もう動きがつくことじゃあございませんからな、それでさすがの茶袋も我《が》を折って降参してしまいました」
「さよですかな、あの先生がそんな柔術取りの名人とは今まで知らなかった、酔っぱらってひっくり返ってばかりいるから腰抜けかと思ったら、やっぱりそれじゃあ、なんでござんすかな、道庵先生は柔術の方もちゃあんと心得ているのでございますかな」
「そこがそれ、能ある鷹《たか》は爪を隠すと言うんで、先生、ああしてしらばっくれて酔っぱらっているけれど、武芸十八般ことごとく胸へ畳み込んでいるところを俺はちゃんと見て取った、その上にお医者さんで脈処《みゃくどころ》を心得ているから鬼に金棒でございますよ」
「なるほど。それにしてもおかしいのは、あの茶袋が道庵先生に手を取られると、痛いとも痒《かゆ》いともいう面《かお》をしないで、ニコニコと笑ったところがわかりませんな」
「いやそうではない、あの茶袋もあれで柔術にかけてはなかなかの取り手だが、何しろ道庵先生に会ってはその敵でないと、つまり自分に心得があるだけに、彼を知り己《おの》れを知るんでげすな、だから指を取られるとすぐに、お前は話せると言って莞爾《にっこり》と笑って、尋常に引上げたところがあれで味のあるところで、道庵さんが敵をとっちめながら、ペコペコお辞儀をして先を立てておく呼吸なんぞも、なかなか見上げたものでございますな、エライものでございます」
輿論《よろん》は往々、土偶人形《でくにんぎょう》をも偉大なものに担《かつ》ぎ上げてしまいます。道庵先生もここで暫く輿論の勝利者となりました。
そのあとで床屋の親方は、道庵先生を座敷へ招いて一口差上げ、
「先生、おかげさまで助かりました。いったいどうしたわけでござります」
「あははは」
道庵先生は笑って、
「あれは二両取りという新手だ、あれで首尾よくとっちめてしまった」
「いや町内では、もう大変な評判で、さっきから入り代り立ち代りお礼にやって来ますが、なんでも先生が柔術の達人で、茶袋を手玉に取って投げたと言って騒いでいますが、その二両取りというのは、やはり柔術の手なんでございますかね」
「あはははは」
道庵はいちだんと大口をあけて笑い、
「柔術《やわら》の手だとも、俺が新発明の柔術の新手だわい、尤《もっと》も古い型を少しは取り入れてあるんだがな、それを場合に当って器用に施《ほどこ》し用いたというのが拙者の働きさ」
「その型をひとつ、伝授を受けたいものでございますね」
「あはははは、いいとも、二両取りの型をひとつ話してやろう。まず最初に茶袋が、わしの胸倉を取った時、その手先を逆に取り返したわたしの働きを見たかい。あの時それ、そっと一両握らしてやった」
「なるほど」
「そうして利目《ききめ》のところを見ていると、グンニャリと来たから、こいつは手答えがあるわいと、それを下へ持って行って西洋流の握手をやる時にまた一両、それで都合《つごう》二両取り、わしの方から言えば二両取られだ、それでスッカリ柔術が利いてしまった。二両取りの新手というのは、つまりそれだけのものさ」
「なるほど、そんなことだろうと思って、私もあの時にお手の中を見ていました。私の方でその手を先に用いさえすれば何のことはなかったのでございますが、あの茶袋の言い分があんまり癪《しゃく》にさわるものでございますからツイ持前が出て、先生に落ちを取られてしまいました、申しわけのないことでございます」
「それはそうと親方、お前さんは何かこの道庵に内緒《ないしょ》の頼みがあると言いなすったから、それで俺《わし》はやって来たのだが、内密《ないしょ》の頼みというのはいったい何だね」
「そりゃ先生、ほんとうに内密なんでございますがね、本人も先生ならばというし、私共も先生をお見かけ申してお願いの筋があるんでございますがね」
「たいへん改まったね、この呑んだくれをまたいやに買い被ったね」
「全く先生をお見かけ申してお縋《すが》り申すんでございますから」
「気味が悪いな、そうお見かけ申して、見かけ倒しにされてしまってはたまらねえ、あんまりお縋り申されて引き倒されてもやりきれねえが、男と見込んで頼まれりゃ、おれも道庵だ、ずいぶん頼まれてみねえ限りもねえのさ」
「実は先生、人を一人預かっていただきたいんでございますがね。ただ預かっていただくんならどこでもよろしうございますが、暫らく隠して置いていただきたいんでございます。先生ならば預ける方も安心、預けられる方も安心なんでございますから」
「俺に人を隠匿《かくま》えというのか。そりゃ大方|謀叛人《むほんにん》とか兇状持《きょうじょうも》ちとか、碌《ろく》な奴じゃあるめえ。いくら男と見込んで頼まれても、そんなのを預かるのは御免蒙りてえが、それも事と品によっては、ずいぶん引受けてみねえ限りもねえのさ。まあ、どんな人間だか言ってみてごらん」
「先生、謀叛人とか兇状持ちとか、そんな物騒な人じゃございません、女の子でございます、女の子を一人、預かっていただきたいんでございますが」
ここで片腕のない床屋の親方というのが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の変形であること申すまでもありません。道庵先生は、百蔵の口から何事か頼まれると、
「遠くの親類より、近くの他人ということもあるて」
と言って、飄々《ひょうひょう》とその床屋を出かけてしまいました。
道庵がこの床を出て行くと、入れ違いに、
「少々ものを承りとうございます」
小股《こまた》の切れ上った女が、小風呂敷を抱えて店前《みせさき》に立って、
「おや百蔵さん」
と言って驚きました。これは女軽業の棟梁《とうりょう》お角《かく》であります。
それから百蔵がお角を連れて、山下の雁鍋《がんなべ》へ来て飲みながらの話、
「親方、おかげさまで全く助かりました、近いうち両国でまた一旗揚げる都合ですから、どうぞ御贔屓《ごひいき》を頼みます」
「それはまあよかった。甲府へ残して置いた連中もみんな、無事でいなすったかね」
「ええ、みんな無事でおりましたが、ただ一人だけどうしても見つからないんですよ。あれがわたしども一座の花形なんですが、火事場からどこへ行ったか、焼け死んだ様子もないから、どこかへ逃げたんだろうと、よく土地の人に頼んでおきました、広いところではありませんから、そのうちに見つかるだろうと思っていますよ。あれが見つかりさえすれば、一人も欠けずに面《かお》が揃いますけれど、そうでなくっても、近いうちに花々しくやってみる当りが附きましたのは、みんな親方のおかげでござんすよ。あの時に親方がいて下さらなければ、一座の者は目も当てられない醜態《ざま》になってしまうところでした」
「俺も少しばかりのお金が、お前さんのお役に立って嬉しいというものだ」
「それから親方、府中でお目にかかった時は、お前さんはたしか、百蔵さんとおっしゃいましたが、ここで銀造さんとおっしゃるのは、どういうわけでございます」
「百蔵の方は近ごろ通りが悪いから、それで銀造と変えたのだ、銀造というのが餓鬼《がき》の時分からの名前さ、これから百の方はやめにして銀の方だけにしてもらいたい。もう一つの頼みは、なるべく甲州ということを言ってもらいたくねえのだ、お前と俺との馴染《なじみ》もあの時限りのことにして、人が聞いたら、兄貴だとか親類だとか言って済ましておいてもらいてえのだ」
「ようございますとも。それはそうと親方、お前さんは、ほんとうにおかみさんがないのですか。あの時のお話では、おかみさんは三年前|亡《な》くなったようなお話でしたけれど、なんだかあてになりませんね」
「ナニ、嘘をつくものか、おかみさんなんぞはありゃしねえ」
「それがやっぱり嘘でございますよ」
「それじゃなにか、俺におかみさんがあるというのかね」
「ありますとも、大ありです」
「こいつは聞き物だね。無いものでも有ると言われりゃ悪い気持はしねえが、お前からそう言われると、どうやら痛くねえ腹を探られるようだ」
「申しわけをするだけ弱味があるんですね、隠したって駄目ですよ」
「驚いたね、ああして、男世帯の銀床《ぎんどこ》に無《ね》えものは女っ気と亭主の片腕だと、町内でこんな評判を立てられているところへ、お前だけが俺に濡衣《ぬれぎぬ》を着せようというものだ」
「そりゃいけません、ここの家に女っ気が有るか無いかということは、一目見れば直ぐにわかりますよ、女は細かいところへ気がつきますからね」
「それでは、俺の家に女がいるというのかね」
「そうですとも」
こんなことから痴話《ちわ》が嵩《こう》じてゆきました。
十
その時分、根岸に住んでいたお絹が、今日は小女《こおんな》を連れて、どこの奥様かという風をして、山下を歩いて帰ります。
雁鍋《がんなべ》の前へ来た時に、見たような人がその店から出かけたのに気がつきました。
男と女と二人で微酔機嫌《ほろよいきげん》で店を出かけたうちの男の方が、東海道下りから甲州入りまで附纏《つきまと》って来たがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵に相違ないから、お絹は自分の面《かお》を隠そうとしました。
しかし向うはちっとも気がつかないで、二人で笑いながら話し合って歩いて行きます。片腕の無い百蔵は前と変らず元気なもので、身なりなども小綺麗にしているのでした。女はと見れば、これは眉を落した年増《としま》でなかなか美《い》い女でした。
お絹はそれを見ると、むらむらと嫉《ねた》ましくなりました。自分はなにもがんりき[#「がんりき」に傍点]に惚《ほ》れてはいない、東海道で附纏われた時も、内心では軽蔑《けいべつ》しながら調子を合せて来たが、男はなかなかしつこい。しつこいほど面白がって翻弄《ほんろう》気取りで一緒に来て、とうとう腕を一本落させることにしてしまって、死ぬか生きるかでウンウン唸《うな》っているのを、山の中へ置きばなしで逃げ出して、その時は、さすがに気の毒と思わないでもなかったが、思い出した時分には、柄にない男ぶりをしてわたしを張りにかかった、その罰はああしたものと腹の中で笑っているくらいでしたが、今その男がこうしてピンピンしている上に、他女《あだしおんな》と摺《す》れつもつれつして歩くところを見ると、お絹は自分勝手な嫉《ねた》みをはじめてしまいました。
「そういうわけなら、あの子をわたしが預かりましょうよ」
それとも知らず、男女の話は甘ったるい。
「そんなことはできねえ」
百蔵はわざとらしく首を振ります。
「そんなに、わたしという者に信用が置けないの」
「お前に預けて売物にでもされた日に
前へ
次へ
全14ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング